「瞬せんせに そう言ってもらえるのは嬉しいけど、瞬せんせの言葉は信用ならないわ」 「え」 「瞬せんせが嘘をついてるっていうんじゃないのよ。瞬せんせの目が信用ならないの。瞬せんせの目には、すべての人に華があるように見えてそう。瞬せんせは 優しすぎるっていうか、誰に対しても好意的にすぎて、針の先ほどの華も華だと言い張る。ところが、それは、瞬せんせ以外の人間の目には ただの砂粒にしか見えないのよ」 それは 冗談なのか本気なのか――もとい、非難なのか称賛なのか――その判断に迷い、瞬はまたしても 服田女史の言に戸惑うことになった。 カウンターの酒棚の前で、氷河は無表情のまま沈黙を守っている。 氷河の その沈黙が『異論なし』の沈黙だということがわかるので、瞬の当惑は ますます大きなものになったのである。 氷河は、服田女史の意見に全面的に賛成しているのだ。 「私は、着せられるより、着せる側になりたいって思って、早々にモデルをやめて デザイナーに転身したけど、モデルクラブに籍を置いていた頃は、本当にいろいろな子に会った。若い子は、若いっていうだけで結構 綺麗できらきらしてるのよ。成人すると、経験と自信で輝くようになって、そこまでになれなかった子は 脱落していく。成人後も活躍していた子たちだって、いつのまにか 櫛の歯が抜けるように 一人また一人と、売れなくなって やめていくの。ほとんどが そういうパターン。ベテランって言われるくらいの歳になっても あの世界に残っている人は、若さや外見の美しさとは違う何かがあったわね。その何かを、モデルのオーラっていう人もいたし、才能だっていう人もいたけど、あれも華の一種だったのかもしれない」 服田女史も、本当は――できることなら、華の育成方法をミッチーに教示して、瞬をストーキングから解放し、氷河の不機嫌を解消したいと思っているのだろう。 だが、華というものが どんなものなのか、それが漠然として掴みどころがないものであるために、具体的なアドバイスができないでいるのだ。 瞬にも もちろん、華の正体はわからなかった。 何といっても それは、『こういうものだ』と言って、人に示すことができるようなものではない。 ただ 瞬には、服田女史の言うことは正鵠を射たもの――ある程度の妥当性と普遍性を持つ見解なのだろうとは思ったのである。 瞬は、服田女史と ほぼ同じことを言っている華の権威者を知っていたから。 「風姿花伝ですね。“時分の花”と“まことの花”」 「なに、それ」 「本邦の能を大成させた世阿弥が記した能の理論書です。能の演者の“花”について語られているんですよ。少年期には、自然にしているだけで美しく、花がある。青年期になると、身体と技術が共に充実してきて、人々に もてはやされるようになるけれど、それは その時だけの花――“時分の花”にすぎず、すぐに消えてしまう。“まことの花”を咲かせることができるのは、“時分の花”に驕ることなく、ひたすら 自分の芸を磨き続けた人だけ。若さを失い、肉体の衰えが見え始めても、まだ花があるなら、その演者は“まことの花”を育むことができたと言えるだろう。更に歳を経て、これまでに身につけた芸が残花として残る。それが芸術の完成の時。――そんな感じだったかな」 瞬としては、世阿弥の書と 服田女史の経験に符合する点が多いことを 服田女史とミッチーに知らせ、得体の知れない華というものの正体を探る作業の助けになればと考えて、そんな話を持ち出したのだが、服田女史が反応を示したのは 全く別の点だった。 「瞬せんせ、なんで そんなこと知ってるの。とても 理系とは思えない」 「僕は、いろんな患者さんと お話する機会を持てますから」 「はーん。察するに、瞬せんせを“まことの花”だとか何とか言って、口説いた患者さんがいたのね。そうでしょう?」 服田女史の当て推量を聞いて、氷河のこめかみが ぴくりと引きつる。 瞬は微笑んで、 「品のある奥様と ご一緒の、70を 幾つか超えた紳士でしたけど」 と言って頷いた。 「いろんな意味で 油断できない場所よね、病院って」 氷河を挑発するための当て推量が全くの的外れではなかったことに呆れ、服田女史は目を剥いた。 そうしてから、軽く苦笑する。 「でも、瞬せんせが“まことの花”って、わかるような気がする。瞬せんせの雰囲気は、どっか特殊なのよね。氷河みたいに派手でも強烈でもない。静かで、控えめで、でも、気が付くと 目が追ってるの。そこにいるだけで 周囲が暖かくなって、心地良くて、ずっと見ていたい、側にいたいって思わせる何かが、瞬せんせには ある。華っていうのが何なのか、それは 私にもよく わからないんだけど、氷河の華と 瞬せんせの華は 違う種類の華だってことだけはわかるわ。氷河が真紅の薔薇なら、瞬せんせは 清らかな白百合よね」 冗談なのか、本気なのか。 成人した男子に向かって、さすがに“白百合”はないだろうと一笑に付しかけた瞬は、服田女史の真顔と、彼女の言を冗談と思っていないらしい氷河の小宇宙に出会い、作りかけた“一笑”を引きつらせることになった。 リアクションに迷っている瞬を見て、なぜか服田女史の方が唇の端を上げて笑う。 「本気で自覚してないとこが、瞬せんせの すごいところよね。瞬せんせ、いかにして華を養うか、ミッチーに教えてあげたら。それがわかれば、ミッチーもストーキングは やめるでしょ」 「そんなもの、養ったことはありません」 「そうは言うけど……。瞬せんせは、たとえば、氷河の前で綺麗でいたいって思ったことはないの?」 「氷河の前で、そんな努力をしても無駄です。誰だって、氷河の前では霞んでしまう」 「瞬せんせは霞んでないわよ。この ド派手な氷河の隣りにいて、どうして霞まないのか不思議なんだけど、ほんとに霞んでない」 そんなことを、心の底から不思議そうに言われても、対応に困る。 それこそ 心の底から、瞬は困ってしまった。 「僕は 本当に、華なんていうものの養い方はもちろん、それがどんなものなのかも知りません―――わからない。教えて差しあげることもできない。ですから、僕は花形さんの ご期待に沿うことはできません」 それが知識の出し渋りの類でないことは、ミッチーもわかっているようだった。 だからといって、瞬から華の育て方を学び取ることを諦めるつもりもないようだったが。 「それは、自分で観察して掴みます。瞬先生の華の正体を掴めたら、私はきっと 誰よりも華のある役者になれる。主役を演じられる役者になれる――きっと、なれる」 ミッチーは、他に どんな策も思いつかず、どんな道も見い出すことができず、藁にもすがる気持ちなのだろう。 しかし 瞬にとっては、ミッチーの言う“観察”―― 一般的にはストーキングと呼ばれる行為――は大変な迷惑、何としても やめてもらわなければならないことだったのだ。 ミッチーに つきまとわれ、一挙手一投足を“観察”されている状況では、表の仕事のみならず、裏の仕事も(?)やりにくいこと、この上ない。 だが、ミッチーは必死である。 彼女は、自分のしていることが 一歩 間違えば犯罪の域に入る行為だということを自覚できないほど必死なのだ。 自分の夢を叶えるために これほど必死に努力している人を 冷たく突き放すことは、瞬にはできないことだった。 仕方がないので、瞬は ミッチーに一つ妥協案を提示したのである。 「では せめて、病院に来るのだけは やめていただけますか。患者さんや病院のスタッフにも迷惑がかかりますし、仕事柄、機密保持の上で 問題がありまから」 「でも、私は――」 「その代わり、僕は 毎週 水曜の夜には必ず、土曜の夜もできるだけ、ここに来ます。氷河、それでいい?」 瞬が氷河に お伺いを立てたのは、氷河の苛立ちが、彼の周囲の空気に触れるだけで 嫌でも感じ取れるからだった。 ストーカーを毅然と拒否しない瞬の態度に、氷河は腹を立てている。 氷河の店を訪れる頻度をあげることで、瞬は氷河の怒りを和らげようとしたのである。 「駄目だ」 と、正直かつ明白な意思表示をしてから、 「と言っても、きかないんだろう」 氷河が、不愉快そうに、いかにも不本意といった体で、言葉を継ぐ。 「はっきり、迷惑だって言っちゃえばいいのに、瞬せんせってば、ほんとに お人好しよねえ。氷河が 腹を立てるのは当然よ」 二人のやりとりを聞いていた服田女史が、スコーピオンを飲み干して、空になったグラスと一緒に きついコメントをカウンターテーブルの上に置く。 氷河が 瞬のために言いたいこと、にもかかわらず、瞬のせいで言えないこと。 それを、服田女史は、平気で、遠慮なく言ってのける。 服田女史の代弁者としての才が有用すぎ、有益すぎるので、氷河は 彼女を この店に 出入り禁止にできないのだ。 彼女がいなければ、氷河のクールの仮面は 早々に剥がれ落ちてしまっているのかもしれない。 そんなことを、瞬は思った。 |