「つまり、そろそろ 聖戦のシーズンだということね」 ギリシャ、聖域、アテナ神殿の玉座の間。 アテナが 虚空に向かって そう言ったのは、神話の時代から数千年が経った、ある日の昼下がり。 聖域の上には青い空が広がり、ヒバリが平和の歌を高らかに歌っている春の晴れた日のことだった。 「でも、今度のハーデスのターゲットを、わざわざ私に教えに来てくれるなんて、いったい どういう風の吹き回しなの」 玉座の間には、アテナ以外の人間の姿は一つもない。 誰かが その様を見ることになったなら、彼(彼女)は、随分と大きな声で独り言を言う人間もいるものだと驚いていたことだろう。 あるいは、虚空に向かって話しかけるとは、この少女は狂気の世界の住人なのだろうかと疑うことになっていたかもしれない。 もちろん、アテナ神殿に やってくるような人間が、玉座の間の玉座に掛けている少女が知恵と戦いの女神であることを知らぬわけはないので、彼(彼女)は、女神の その通常ボリュームの独り言は 人智を超えた何事かなのだと すぐに察することになっただろうが。 アテナは人間でないものと言葉を交わしているらしかった。 まもなく、虚空から、アテナの独り言に返事が降ってくる。 「その方が 面白いことになりそうなのでね」 「いやいや、面白がるなどと とんでもない。我等は ぜひ知恵と戦いの女神の力になりたいと思って、ここまで やってきたのだよ。いわば、親切心というやつさね」 「地上に生きている人間たちが ことごとく滅びてしまったら、我等の商売もあがったりだからねぇ」 虚空から降ってくる声は、一人の人物(神?)のものではなかった。 複数の声――3種類の声は、それぞれに個性がある別人のものなのだが、そのどれもが、“『ひひひひひ』という魔法使いの おばあさんのような笑い声の おまけが続いていないのが不思議に思える”という点で、非常に似通っていた。 いかにも腹に一物ありそうな3つの老女の声。 しかし アテナは、それらの声を聞いても 不信の表情を浮かべることはしなかった。 とはいえ、全幅の信頼を寄せているふうでもなかったが。 提供される情報の内容は疑わないが、その情報提供が善意から為されるものだとは思っていない。 そういう口調で、アテナは 虚空に向かって、 「それは 有難いこと。で、今度のハーデスのターゲットはどこの美少年なの」 と尋ねた。 「アテナ。ハーデスが 自分の依り代として選ぶのは、美少年ではなく、地上で最も清らかな魂の持ち主で――」 「ええ、ええ。『地上で最も清らかな魂の持ち主。ただし、美形に限る』でしょ。建前はいいわ。で、ターゲットは」 極めて率直な態度のアテナは、彼女が対峙する相手に対しても、自分と同様の率直さを求める。 そのせいかどうか、老女たちは ついに、 「ひひひひひ」 と、引きつった笑い声を 大理石の広間に響かせた。 それでも、老女たちは、アテナよりは建前や様式美というものに価値を置いているらしく、アテナが求めているものを すぐにアテナに手渡すことはしなかったが。 「それが、なんとアテナの聖闘士なのだ」 「私の聖闘士? あら、じゃあ、瞬なの?」 勿体ぶって(恩着せがましく)知らせるつもりだった名を 先にアテナに言われてしまい、老女たちは 少々 機嫌を損ねたようだった。 「察しのいいことで」 詰まらなそうな口調で、老女の一人がぼやく。 老女たちの機嫌を 全く意に介していないらしいアテナは、老女たちの機嫌を取ろうともせず、さっさと話を進めていく。 「昨日今日の付き合いではないのだもの。ハーデスの好みなんか、百も承知よ。範囲が限られていれば、嫌でもわかるわ」 わかりたくて わかったわけではないのだろう。 不機嫌な老女の声に応じるアテナの声も、少し不機嫌の色を帯びている。 が、彼女は すぐに頭を切り替えたようだった。 「でも、それは困ったわね。瞬は、最強にして最弱。私の聖闘士の中では、その強さに 最も波のある聖闘士よ。おまけに、やたらと犠牲的精神が旺盛。ハーデスに身体を乗っ取られるようなことになったら、瞬は すぐに自分が死ぬことで 事態を収拾しようとするに決まっているわ。聖戦が始まる前に、瞬を最強モードにしておくための手を打っておかないと、まずいことに――」 右手の指を数本 額に当てて――アテナは “瞬を最強モードにしておくための手”を考えようとしたのだろう。 しかし、彼女は すぐに その行為を中断した。 改めて考えなくても、対応策は 既に その場にあることに、彼女は気付いたのだ。 「ああ。それで、運命の女神たちの お出ましというわけね」 「これまた、察しのいいことで。さすがは知恵の女神だ」 運命の女神たちは そう言って、再び、 「ひひひひひ」 と、魔法使いのおばあさんの声を アテナ神殿に響かせた。 運命の糸を紡ぐクロートー。 クロートーが紡いだ運命の糸を人間たちに割り当てるラケシス。 ラケシスが人間たちに割り当てた運命の糸を切るアトロポス。 彼女たちは もちろん、彼女たちの仕事を為すために、ここにやってきたのだ。 それ以外に、彼女たちにできることはないのだから。 「瞬が最も強くなるのは、仲間を傷付けられた時。瞬に 犠牲的精神を発揮させず、かつ 最強モードを保たせておくには、瞬と瞬の仲間を運命の糸で結びつけておけばいいと、あなた方は考えたわけね。瞬が死んだら 仲間も死ぬということにしてしまえば、瞬は決して 死を選ばない。仲間の命を守るために、持てる力の すべてを惜しみなく駆使することになる――と」 「その通り。我等は 知恵と戦いの女神のために、無報酬で その仕事をしてやろう」 運命の糸を紡ぐクロートーが、恩着せがましく言う。 「それで、運命の糸でアンドロメダに結びつける相手を、アテナに ご指名いただこうと思ってね」 と言ったのは、運命の糸を人間たちに割り当てるラケシス。 最後に、割り当てた運命の糸を切るアトロポスが、 「ひひひひひ」 という笑い声で、運命の女神たちの話を締めくくってくれた。 運命の女神たちの考えは、アテナが考えつくはずだった答えに合致していた。 それが、ハーデスに対抗できるだけの力を瞬に持たせる最善の策。 そして、おそらく唯一の策。 その考えには、アテナは異論を抱かなかった。 となれば、問題は、運命の女神たちが言うように、瞬と運命を共にする相手の選択――ということになる。 「運命の糸で、瞬に結びつける相手ね……。ここは やはり、手堅く 一輝かしら」 そう呟いて、だが、アテナは その決断を躊躇することになった。 運命の糸で瞬に結びつける相手は誰でもいいのだということに、彼女は気付いたのである。 それが誰であっても、自分以外の人間の命が かかっているとなれば、瞬は ためらうことなく 自らが持つ すべての力を解放するだろう。 むしろ 運命共同体となる相手が身内すぎると、最悪の場合、瞬は その相手に『共に死んでくれ』と甘えてしまうかもしれない。 アテナは そうなることを危惧したのである。 しかし、そんなことを言い出したら、瞬と瞬の仲間は全員、尋常でなく強い絆で結ばれた身内同士、誰もが不適格ということになる。 ならばいっそ、瞬とは縁もゆかりもない赤の他人の方が――瞬にも聖域にも戦いにも関わりのない無辜の一般人の方が――“瞬に 自分の命を諦めさせない”という目的を確実に達成させることになるのかもしれない。 とはいえ、全く無関係な赤の他人を、アテナの聖闘士の戦いに巻き込むことには問題がある。 これは安易に決めてしまっていいことではないと気付いたアテナが、改めて熟考モードに突入した時だった。 まるで超高速爆撃機が100機ほどが一斉に飛び立ったような爆音と、神の御座所であるアテナ神殿の大理石の柱を揺るがすほどの衝撃波が、アテナの許に届けられたのは。 |