「何事なの! まさか、もう冥界軍が聖域に侵入してきたのではないでしょうね!」 音は、かなり大きい。 音と衝撃が発生した場所は かなり近く、アテナ神殿のすぐ手前、教皇殿の辺りである。 そんなところまで敵の侵入を許したというのか――。 アテナは、ほとんど反射的に 玉座から腰を浮かしかけたのである。 だが、彼女は 立ち上がることなく、すぐに元の態勢に戻った。 聖域全体を包んでいるアテナの結界は破られていない。 感じられる小宇宙は、アテナの聖闘士たちのものだけ。 となると、爆音の原因は明白だったのだ。 「敵襲ではないわね。また、あの二人なの」 ならば、まもなく 爆音を作った者たちが謝罪と弁解のために この場にやってくるはず。 アテナは、それが敵襲ではないことに 心を安んじるべきか、あるいは激怒すべきなのかを 迷いながら、この騒ぎを起こした犯人たちが 彼女の前に出頭してくるのを待つことになったのである。 爆音発生から5分後。 アテナの予想通りの二人が、アテナの前に出頭してきた――もとい、連行されてきた。 予想通りの二人――白鳥座の聖闘士 キグナス氷河と 鳳凰座の聖闘士 フェニックス一輝――を連行してきたのは、天馬座の聖闘士 ペガサス星矢と龍座の聖闘士 ドラゴン紫龍。 その後ろに申し訳なさそうな顔をした、アンドロメダ座の聖闘士 アンドロメダ瞬が従っている。 あらゆる前置きを省略して、アテナは 彼等に、 「原因は?」 と尋ねた。 聞きたくはないが、訊かないわけにもいかない。 アテナとしても、そんな質問を発することは――否、この状況のすべてが――不本意だった。 そんなアテナの胸中に気付いているのか いないのか。 犯人たちは それぞれに、自分が悪いのではないから、自分には 問われたことに答える義務もない――と考えているらしく、二人共 唇を一文字に引き結んだままである。 アテナに事情説明をしたのは、二人を連行してきた天馬座の聖闘士だった。 「なーんか、氷河が瞬の尻に触ったとか 触ってないとかで、こいつ等が喧嘩を始めちまってさー」 私闘が禁じられている聖闘士が 喧嘩をするだけでも とんでもない規律違反だというのに、その喧嘩の理由が あまりにも崇高すぎる。 アテナは こめかみを ぴくぴくと引きつらせた。 「瞬のお尻に触った? なんて素晴らしい理由なんでしょう。まあ、触ったのが胸じゃないだけ、救いがあるといえるのかもしれないわね」 「救いなんか、どこにもないだろ」 星矢の口調が ぞんざいなのは、彼がアテナへの敬意を抱いていないからではない。 星矢は、アテナへの敬意を忘れるほど、仲間たちの喧嘩の理由の崇高さに呆れているのだ。 そんな星矢の気持ちを 承知しているアテナも、星矢の態度を責めるようなことはしなかった。 ハーデスとの戦いを目前に控えた、聖域を統べる知恵と戦いの女神が責めるべき相手は、今は星矢ではないのだ。 「氷河。あなたは、ハーデスとの聖戦が いつ始まるかもしれないという この重要な時に、本当に そんな不埒な真似をしていたのですか」 神の威厳をフル稼働させて 問い質しても、問い質す罪の内容が内容だけに、どうしても情けない思いの方が先に立つ。 氷河は、アテナが口にした公訴事実を、大きな声で否認してきた。 「言いがかりだっ。俺はただ、これから大きな戦いが起きるかもしれないっていう時に、瞬の聖衣は あまりに腰のあたりが無防備すぎるんじゃないかと、瞬の身を案じていただけだ! 触ってなどいない。見ていただけだ!」 「その目が嫌らしいと言っているんだ!」 被害者側証人であるところの瞬の兄が、発言の許可を得ず、被告人を責める。 一輝の背後では、怒りの小宇宙が燃え盛っていた。 瞬のいるところで痴漢嫌疑をかけられて激怒している氷河が、その背後に オーロラとダイヤモンドダストで飾りつけられた小宇宙を張りつけて反駁する。 「だからって、命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間に、突然 問答無用で鳳翼天翔をぶちかますか !? 俺は、純粋に瞬の身を案じていただけだ。貴様の心根が嫌らしいから、貴様の目には、俺の純粋な目までが嫌らしいものに映るんだ!」 「何を言うかっ。貴様のその助平な目は、それだけで立派なセクハラだ!」 「俺の このクールな眼差しの どこがセクハラだとっ」 「どこもかしこもセクハラだろーがっ。何がクールな眼差しだ! そもそも 貴様がクールだった時など、かつて一瞬でもあったか !? 貴様は常に ただの助平男だっただろーが!」 「だから、俺を助平と感じるのは、貴様の目が助平なせいだと言っているんだっ」 小宇宙全開で 見苦しい男の戦いを繰り広げる一輝と氷河。 冷静さのかけらもない二人の冒頭陳述を中断させたのは、氷河や一輝の小宇宙など鼻で吹き飛ばしてしまいそうなアテナの小宇宙だった。 神の小宇宙によって、一輝の炎の小宇宙が鎮火され、氷河のオーロラとダイヤモンドダストが どこかに消え失せる。 強大至極な神の力に圧倒され、さすがの一輝と氷河が即座に沈黙。 静かになった二人を睨めつけてから、アテナは瞬の上に視線を投じた。 「セクハラというのは、被害者とされる人物が、それを不快と感じて初めて成立するものよ。つまり、瞬が氷河の嫌らしい視線をどう思ったかがポイントなわけ」 「嫌らしくないっ!」 どうあっても静粛にしていられないらしい氷河が、脇から口を挟んでくる。 アテナは、しかし、氷河の主張に まともに取り合わなかった。 「あなたの意見は聞いていないわ。瞬、どうだったの」 「どう思ったも何も、僕は男子です」 極めて常識的で良識的な瞬の答え。 実は、それは、アテナの質問に答えていない答えだったのだが、その場を治めるには最良の答えだった。 瞬の賢明な――違う言い方をすれば、巧妙な――答えに、アテナが満足げに頷く。 「瞬が まともでよかったわ。でも、困ったわね。この調子では、ハーデスとの聖戦が始まる前に、氷河と一輝の くだらない喧嘩のせいで聖域が崩壊してしまう。どうせ壊すのなら、冥界の建物にしてほしいのだけど、冥界は どこかの高校の体育館裏のように気軽に行けるところではないし……」 嘆かわしげに首を振り、アテナが虚空に一瞥をくれる。 その時、瞬が アテナの視線の先に何かがいると感じたのは、その場にいるアテナの聖闘士の中で、瞬が最も 正しく緊張していたからだったろう。 瞬は、氷河や一輝のように 怒りの感情に支配されておらず、星矢や紫龍のように 仲間の低次元の いさかいに疲れ果ててもいなかったのだ。 「沙織さん――アテナ。ここに何か――誰かの気配があります」 「ああ、気にしないで。無視していいわ、無視」 アテナが そう言ったのは、彼女の統治する聖域内で起きている下世話な騒動を第三者に知られた事実を なかったことにするため。――だったかもしれない。 アテナにも、神として維持しなければならない体裁、立場、都合というものがあるのだ。 しかし、運命の女神たちは、アテナの都合を綺麗さっぱり無視してくれた。 おそらくは、わざと。 わざとでなかったとしても、嬉々として。 運命の女神たちが、いかなる前触れもなく、正しく唐突、まさしく突然、アテナ神殿の玉座の間に、その姿を現わす。 突然 その場に出現した三人の老婆に、アテナの聖闘士たちは ぎょっとして――そして、僅かに後ずさった。 見知らぬ三人の老女――彼女等の 尋常の人間とは思えぬ登場の仕方も さることながら、その異様な風体に、アテナの聖闘士たちは ひどく驚かされてしまったのである。 その出現の仕方からして、どう考えても彼女等は人間ではないだろうが、それにしても、生きているのが不思議に思えるほど年古った老女たちの佇まい。 アテナの聖闘士たちは、三柱の女神たちに、神の威厳というより 底知れぬ不気味さを感じてしまったのだ。 「あら、あなた方が 人間の前に姿を見せるなんて珍しいこと。破格の大サービスね。そんなことをして いいの?」 アテナに そう問われた女神たちは、揃って、 「ひひひひひ」 という笑い声を重ね、そうしてから、おもむろに 顎をしゃくった。 「数百年に一度の大イベントだ。開幕の瞬間を見たいじゃないか」 「そうそう。せっかく、大イベントのメインキャラが勢揃いしているんだ。これを 見逃す手はないだろう」 「この子がアンドロメダかい?」 三人の老女たちが、瞬の仲間たちを押しのけて 瞬を取り囲み、じろじろと値踏みするように その目で瞬を舐めまわす。 瞬の仲間たちは、この三柱の老女たちの目こそ、正真正銘のセクハラだと思った。 |