「さ……沙織さん……」 運命の女神たちの 不気味で無遠慮で不躾な視線にさらされて怯えた瞬が、アテナに救いを求める。 アテナは 瞬に気の毒そうな視線を向けたが、それだけだった。 知恵と戦いの女神の力をもってしても、運命の女神たちのセクハラをやめさせることはできない――ということらしい。 三人の老女たちのセクハラ視線を咎める代わりに、アテナは瞬にセクハラ老女たちを紹介することをした。 「恐がらなくてもいいわ。――と言っても無理かもしれないけど……。彼女たちは、運命の女神――モイライ。あなたの右手にいるのがクロートー、左手にいるのがラケシス、正面にいるのがアトロポスよ。今のところ、私たちの敵ではないわ」 「……」 セクハラをしない敵と、セクハラをする味方。 どちらが 人間にとって有難いものなのか。 敵と戦う術を持つ瞬にとっては、後者よりは前者の方が、少なくとも不快さだけは はるかに軽微なものだった。 「運命の女神? そんな神々が なぜ ここにいるんです」 極めて自然かつ当然かつ妥当な質問である。 しかし、その質問に一言で答えることは難しい。 アテナは 玉座の間に揃っている彼女の聖闘士たちを 一渡り見渡し、 「氷河のセクハラ認定 及び 運命の女神たちの来訪理由説明の前に、重要な情報を一つ、あなた方に提供したいのだけど、構わないかしら」 と、彼等に尋ねた。 アテナの聖闘士たちを代表して、紫龍が、 「どうぞ」 と、アテナに応じる。 一輝と氷河は、瞬に注がれる運命の女神たちのセクハラ視線をどうにかしたいという思いと、まさか老人であり女性でもある者たちに腕力を振るうわけにもいかないという気持ちの間で、焦れ、苛立ち、それどころではなかったのだ。 そして、星矢は、そんな二人に呆れる作業で多忙だった。 大いなるジレンマに苦悩している白鳥座の聖闘士と鳳凰座の聖闘士を無視して、アテナが“重要な情報”を 渋い口調で語り始める。 「まもなく、冥府の王ハーデス率いる冥界軍と聖域の聖戦が始まる。冥界軍の首魁であるハーデスが大変なナルシストだということは、以前 話したことがあったわね」 「自分を とんでもない美形だと勘違いしてて、自分の本体を傷付けるのが嫌いな奴なんだろ。そんで、自分の本当の身体は冥界のエリシオンってとこに おねんねさせといて、普段は魂だけで ふらふらしてる」 アテナの言葉に頷いたのは、氷河と一輝に呆れる作業を中断した星矢だった。 ミスティと大差ない そんな男がアテナの最大の敵なのかと、実は星矢は冥府の王を 少々――否、かなり――侮っていたのである。 「ええ、そう。で、ハーデスは、実際の戦いは いつも、聖戦が行われる時代の人間の身体を乗っ取って行なうの。ほんと、傍迷惑もいいところなのだけれど、ハーデスが この時代の自分の依り代として選んだターゲットがわかったのよ。地上で最も清らかな魂を持ち、超ナルシストのハーデスの眼鏡に適うほどの美形。おまけに、なんと 私の聖闘士」 「え……? それって、まさか――」 老女のセクハラより重要な情報の不吉さに、星矢は 思い切り顔を しかめることになった。 アテナが、そんな星矢に負けず劣らず 苦い顔になる。 「そう、その まさか。今回の聖戦でのハーデスのターゲットは瞬。つまり、瞬へのセクハラ加害者が もう一人 増えるということになるわね」 「うわ、やっぱり、瞬なのかよ!」 「他の誰かなら よかったというわけではないが、よりにもよって瞬とは。今 既に混沌としている事態が、更に面倒なことになりそうだ」 そう呟く紫龍の顔は、憂い顔というより迷惑顔だった。 瞬を 地上で最も清らかな魂を持つ者と承認するハーデスは 観察力と判断力に優れた神なのだろう。 しかし、惜しいかな、彼には想像力というものが欠けている。 冥府の王が瞬を自らの依り代に選ぶことで、二人の男が 厄介で面倒な事態を引き起こす可能性に、ハーデスは思い至っていないのだ。 冥府の王とは異なり 相応の想像力を備えている紫龍の懸念通り、アテナの“重要な情報”を聞いた一輝が、早速 ヒスを起こし始める。 「どうして この世には、瞬をつけ狙う ろくでなしばかりが有象無象しているんだ! 氷河っ、貴様、また瞬を助平な目で見ているぞっ」 「やかましいっ。そう見えるのは、貴様の性根が助平だからだと言ったろう! 俺が瞬に寄せる思いは、瞬の魂より清らかだ!」 「ほう。にもかかわらず、ハーデスが貴様を 自分の依り代に選ばなかったということは、貴様のツラが美形の範疇から外れているということだな。この不細工男」 「清らかでも美形でもない貴様にだけは言われたくない!」 瞬の兄と 瞬の恋人志願者(※ 男)の醜い言い争いに、運命の女神たちも瞬へのセクハラ行為を一時 中断して、すっかり呆れ顔。 その上、このアテナ神殿、アテナの前で、攻撃的小宇宙を燃やし始めた二人の聖闘士に当惑し、畏怖の念すら抱き、怯え、彼女等は逃げ腰になる気配をさえ示し始めていた。 アテナの聖闘士に、アテナ神殿を破壊されては たまらないアテナが、再度 自らの小宇宙で 二人の小宇宙を押さえつける。 「氷河、一輝! あなた方は、今 この聖域と地上世界が未曾有の危機に直面しているということがわかっているのですか! この地上世界が滅んでしまったら、セクハラも嫌がらせもしていられなくなるのよ!」 アテナの叱責を受けて、氷河と一輝は、互いに悪口雑言を叩きつけ合うことだけは、一応、やめた。 しかし、隙あらば 憎い敵にダメージを与えようとして、その小宇宙だけは、アテナに押さえつけられても ぶすぶすと燻り続けている。 「まったく、もう!」 分別のない駄々っ子のような二人に、さすがのアテナも、それ以上は 堪忍袋の緒の維持が困難になってしまったらしい。 アテナは、運命の女神たちに向き直り、怒気のこもった声で彼女等に言い渡した。 「予定を変えるわ。運命の糸で結びつけるのは、この二人にしてちょうだい」 「この二人? アンドロメダではなく? それで よいのか、アテナ」 「予定変更よ。どちらにしても、瞬と一輝を運命の糸で結びつければ氷河が、瞬と氷河を結びつければ一輝が、怒り狂って暴れ出すに違いないんだから」 アテナの決意は固く、翻意の余地のないもののようだった。 その断固とした態度を見て、運命の女神たちが 戸惑いながら首肯する。 「では、この二人の運命を結び付けよう。二人は、今 この瞬間から 同じ星の下にある者たちになる。もし 一方が命を落とすようなことがあれば、もう一方も その日のうちに命を失うことになるだろう。心して生きよ。アテナの聖闘士、フェニックスとキグナス」 運命の糸を結びつけるラケシスは、彼女の仕事を一瞬で終えた。 そして、新たな運命を背負うことになった氷河と一輝に、その運命を告げる。 二人は、自分たちが何を言われ、何をされたのかを、すぐには理解できなかったようだった。 氷河と一輝が、ラケシスの宣告の後、30秒ほどの時間をおいてから、 「なにーっ !? 」 と、非難と抗議の雄叫びを アテナ神殿の玉座の間に響かせる。 神への敬意どころか、最低限の礼節さえ心得ていない二人の聖闘士に、アテナは、自分の中の怒りを懸命に抑えつけているような目と声で、白鳥座の聖闘士と鳳凰座の聖闘士に宣告した。 「『なにーっ』じゃないわ。たった今から、あなた方は 運命の糸で結びつけられた二人よ。せいぜい仲良くしなさいね」 「こ……こいつと仲良くだとっ !? 」 「そんなとこができるかーっ」 「できても できなくても、そうしてもらわなければならないのよ!」 この期に及んで反省の色一つ見せない二人の聖闘士を、アテナが容赦なく怒鳴りつける。 「私は 本当は、瞬と誰かを運命の糸で結びつけて、最悪の事態に直面した時、瞬が自死で問題解決を計ろうとする事態を避けようと思っていたのよ! でも、今のまま、あなた方に好き勝手を許していたら、ハーデスとの聖戦が始まる前に、あなた方に聖域を破壊し尽くされてしまう。あなた方のせいで、私の計画は すべて水の泡。大声をあげて 泣きわめきたいのは私の方よ。あなた方は、あなた方の大切な瞬の身を守るための方策を一つ、使えないものにしてくれた!」 「う……」 それなら そうと、先に説明をして、『聖域を破壊し尽くしても、敵(?)と戦い続ける』と『瞬の身を守るために、敵(?)と仲良くする』の二者択一を求めてくれればよかったではないか――と、敵同士の二人は思った。 そうしてもらえれば、多少の葛藤はあるにしても、自分(たち)は後者を選んだのに――と。 もっとも、その選択のあとで、自分こそが瞬に運命の糸で結びつけられる相手だと言い張って 戦闘態勢に突入した自分たちが、このアテナ神殿を破壊するようなことはしなかった――と言い切る自信は、氷河も一輝も持っていなかったのであるが。 どんな経路を辿ろうと、結果は同じものだったのかもしれないが。 いずれにしても、既に起こってしまったことを悔やんでも、それこそ 後の祭り。 態勢は既に決してしまったのだ。 「そういうわけだから、氷河のピンチは一輝のピンチ、一輝のピンチは氷河のピンチ。あなた方に、瞬のお尻のことで聖域を壊している暇はないはずよ。瞬の足手まといになりたくないのなら、互いの命を守るための特訓でもしておくことね。ハーデスとの聖戦は いつ始まるか わからないのだから」 白鳥座の聖闘士と鳳凰座の聖闘士以上に腸が煮えくりかえっているらしいアテナの微笑が恐い。 結局、氷河と一輝は、それ以上 自らに課された運命についての異議申し立てをすることもできず、憮然とした面持ちでアテナの前から辞することになったのだった。 |