そうして アテナ神殿を出たアテナの聖闘士たち。 まさに嵐の前の静けさで、聖域の上には青く晴れた空が広がっている。 その空の下で、それまで ただ怒りの感情にのみ支配されていた氷河と一輝は、徐々に 冷静になり(あくまで自分比)、それに伴って 彼等は現在の自分の状況把握が できてきたのである。 もっとも、そうして彼等が把握した現況は、彼等を更に苛立たせる種にしかならなかったが。 「つまり、一輝が死ねば、俺の恋が成就する前に、俺も命を落とすということか……!」 「こんな 根性なし野郎の生き死にが、俺の生死を左右することになるとは……」 いかにも 忌々しげに、いかにも口惜しげに、二人が呻く。 だが、その時 その場で 誰よりも現況を忌々しく思い、この事態に苛立っていたのは、実は 星矢だったのである。 こんなことになっても自分の都合と感情優先の氷河と一輝に、星矢は目一杯 腹を立てていた。 「おまえら、自分のことより、瞬のことを考えろよ! 周囲はセクハラ野郎だらけ。そのセクハラ野郎共は 氷河以外は みんな神で、その内の一人は 瞬の身体の乗っ取りを企んでる。それだけでも十分 とんでもない事態なのに、犬猿の仲の おまえ等の命が一蓮托生。まかり間違って、おまえ等のどっちかが命を落とすことになれば、瞬は二人分 泣かなきゃならなくなるんだぞ!」 「星矢の言う通りだ。おまえたちのどちらか一方が命を落とせば、その瞬間に 聖域軍は欠員2。冥闘士の数は100を超えていて、それでなくても数の上では 俺たちは圧倒的に不利なんだ。欠員2のダメージは大きい。何より 瞬を泣かせないために、おまえたちは決して死んではならないんだ。敵と戦いながら、氷河は己が身と一輝を、一輝は己が身と氷河を守らなければならん。おまえたちは、これまでのように“友の屍を超えて、先に進む”ができなくなってしまったんだからな」 星矢と紫龍の説教だけなら、氷河と一輝は『そんなことは わかっている』と、仲間の言を一蹴していたかもしれない。 しかし、 「兄さん、氷河。死なないで。お願いだから、仲良くしてください」 と、瞳を潤ませた瞬に懇願されてしまっては。 さすがの氷河と一輝も、涙ながらの瞬の懇願を無下に退けてしまうことはできなかった。 彼等は、自分のためというより、瞬のために――瞬の心を安んじさせるために――アテナの指示に従う(振りをする)ことにしたのである。 すなわち、彼等は 翌日から、“互いの命を守るための特訓”に取り組み始めたのだ。 ――が。 なにしろ、氷の聖闘士と炎の聖闘士――超低温小宇宙と 超高温小宇宙。 小宇宙に質量というものがあるなら、その二つの小宇宙がぶつかっても、どちらかが打ち消されるか 相殺されて、やがて その戦闘力は消滅するだろう。 小さな氷のかけらを 燃え盛る太陽に投じた時、その氷のかけらが すぐに蒸発してしまうように。 数千度に熱した鉄のかけらを 氷の海に投げ込んだ時、鉄のかけらが 即座に その熱を海に奪われてしまうように。 だが、彼等の小宇宙は無限。質量の概念を超えているのだ。 いつまでも どこまでも 反発し合い 争い合うのが、二つの小宇宙の宿命。 二人の小宇宙が触れ合わないことが、この地上世界のためなのである。 その二人が、事ここに至って共闘を余儀なくされたのだ。 彼等の“仲良し特訓”は、悲惨を通り越して、不様を極めていた。 その上。 氷河と一輝が これまでの喧嘩をやめて、(傍目には喧嘩にしか見えないが)仲良し共闘特訓を始めたことは、聖域中の住人たちに奇異の念を生まないわけにはいかず――その事情を知りたがり 勘繰る者多数。 その結果、白鳥座の聖闘士と鳳凰座の聖闘士が運命の糸で結びつけられた二人になったという情報が、あっという間に聖域中に広まってしまったのである。 それは、燃え上がる炎が翼をつけて飛翔するがごとく、派手な尾鰭つきで聖域を席捲した。 「やだあ。あの二人、ほもなんですってー」 「なんでも、アテナに直接 頼み込んで、運命の女神に自分たちを運命の糸で結びつけてもらったんだとか」 「なんて破廉恥な。処女神アテナに、よく そんな頼みごとができたもんだ」 「そんなのがアテナの聖闘士で、この地上世界は大丈夫なのか」 噂を語っている当人たちは ひそひそ話しているつもりでも、それが聖域の住人全員によって一斉に為されれば 大音声になる。 それは 嫌でも渦中の二人の耳に届くことになった。 「俺が好きなのは瞬だっ! その件に関しては、これまで俺は常に堂々と公言してきた。訊かれもしないのに、相手構わず知らせることもした。それは聖域中の者たち誰もが知ってることだ。だが、そのことで あれこれ噂する奴は、これまで誰もいなかったじゃないか。なぜ今回に限って、あんな気持ちの悪い噂が こんなに盛大に流布されることになるんだ! しかも、その噂は、真実から程遠い!」 氷河の激昂は至極当然のものである。 氷河の腹立ちは無理からぬものと、星矢も思った。 が、大衆というものは、常に、センセーショナルで ショッキングで 意外性に富む話題を好むものなのだ。 常識的で ありふれた噂を語っても、誰も感情を刺激されない――楽しめない――から。 「そりゃあ、おまえと瞬が並んで立ってても、ほもに見えねーし」 「うむ。おまえと瞬は、見た目だけなら、ただの綺麗なカップルだ」 「けど、おまえと一輝じゃあなー……」 星矢が、その先を言いたくなさそうに顔を歪める。 紫龍は、心底 嫌そうに、星矢に賛同の意を示した。 「人間というものは、考えたくないことに限って、考えるのをやめられないものだ。聖域の者たちにとって、おまえたちは、考えたくないことを考えさせる二人なんだ」 「おまえと瞬だと、『へー、綺麗な二人だねー』で、話が終わっちまうじゃん。話に発展性がないんだよ」 「大きな戦いが近いことはわかっているのに、敵の具体的な姿が見えてこないせいで、聖域内に不穏で不安な空気が蔓延しているせいもあるだろうな。見えない敵の代わりに、見える おまえたちを叩くことで、彼等は 自分の不安を紛らせているんだ」 「聖域の雰囲気が こんな時に、こんなことになるなんて、おまえ等、タイミング悪いよなー」 この不快極まりない噂を『タイミングが悪い』の一言で片づけられてしまっては たまらない。 だが、噂は 既に聖域中に広まってしまっているのだ。 所詮は他人事という顔で 状況改善に努める気はないらしい星矢たちを見限って、氷河は瞬に泣きついた。 「瞬! おまえは嫌だな? おまえは、不快な噂が蔓延している今の聖域の状況を どうにかすべきだと思ってくれているな?」 その問い掛けに、瞬が もし深く頷いてくれていたら、氷河の憤りは それだけで治まってしまっていたのかもしれない。 瞬が そのデマをデマだと認識し 不快に思ってくれてさえいれば、氷河は 誰が どこで どんな噂に興じていようと、一向に構わなかったのだ。 だが 瞬は、氷河に頷き返してくれなかった。 もとい、頷き返してはくれたのだが、それは 氷河の望む首肯とは意味内容が全く異なる首肯だったのだ。 「兄さんは どこか生き急ぐようなところがあるし、氷河は自分の命に諦めがよすぎるところがあるから、こういうことになったのは、二人のためにいいことだったかもしれないね。自分の命が自分一人のものじゃないと思えば、氷河も兄さんも 自分の命を大切にしてくれるでしょう?」 「当たりまえだ! こんなのと心中してたまるか!」 それまで、気持ちの悪い噂に言及すること自体が不快で だんまりを決め込んでいた一輝が、吐き出すように言う。 瞬は、兄の仏頂面に微笑を浮かべた。 「うん。よかった。沙織さん――アテナには感謝のしようもないくらい感謝してる」 自分の命に執着のない兄と氷河の運命が結びつけられたという有意義な事実の方が、氷河と一輝の醜聞より ずっと、瞬には重大で重要なことであるらしい。 たとえ それが、いわゆる“呉越同舟”であったとしても。 氷河より、一輝より、よほど悲惨で多難な運命を背負わされたというのに 不思議に落ち着いている瞬の様子を見て、星矢が眉を曇らせる。 「よかったって、何がだよ」 「沙織さんは、僕と誰かを結び付けようとしていた。でも、僕は、自分以外の誰かを道連れにはできない。兄さんと氷河の喧嘩が役に立った。人生って、何が幸いするか わからないね」 とんでもない運命を背負わされ、不安でいっぱいでいるのが当然の状況にあるというのに、瞬の声は至って落ち着いている。 ここで瞬に取り乱されても対処の仕様はないのだが、瞬の落ち着きぶりに不安を覚えたのは、星矢だけではなかった。 「瞬。おまえは、死ぬつもりでいるのではないだろうな」 瞬に そう問う紫龍の声は、瞬の答えを聞く前から、瞬の決意を たしなめようとする人間のそれだった。 瞬が微笑んだままで、首を横に振る。 「そんなはずないでしょう。兄さんの無謀と 氷河の諦めのよさと――大きな不安が二つ消えて よかったと思ってるだけ。それだけだよ」 「……」 瞬の そんな答えは、全く信用ならない。 紫龍は眉根を寄せ、星矢は唇を きつく引き結ぶ。 「瞬が こんな大変な時に、一輝と氷河ときたら、瞬の尻がどうとか こうとか、そんなことばっかりで……。俺は、自分が こんな奴等と仲間だなんて思いたくねーぜ、ほんと」 「でも、僕がハーデスの依り代として選ばれたことに、氷河と一輝兄さんに深刻に悩まれても困るから……」 「そりゃ そうだけど、それにしたって、もう少しさぁ……」 「もしかしたら アテナは、僕の気を紛らすために、わざと こんな ややこしい事態を作ってくれたのかもしれない」 「沙織さんは 単に、状況が わかってない二人に激怒しただけだろ」 瞬の言う通り、氷河と一輝に深刻に悩まれても困るのだが、今は やはり深刻になるべき時だろう。 深刻の“し”の字もなく、瞬の尻に拘泥している瞬の兄と 瞬の恋人志願者を見る星矢の視線は、情けなさと溜め息でできていた。 |