そうこうしているうちに、ついに聖戦は始まってしまったのである。
サガの乱や海皇ポセイドンの覚醒さえ 些細なアクシデントにすぎない(らしい)、冥府の王ハーデスと 知恵と戦いの女神アテナの戦い――冥界軍と アテナの聖闘士たちの熾烈な戦い。
――のはずだったのだが。
人生というものは、本当に 何が幸いするか わからないものである。
聖戦前に起きた予定外の“些細なアクシデント”は、アテナの聖闘士の中では最下位に属する青銅聖闘士たちを 格段に強い闘士にすることに役立っていたのだ。
それは、本来は両陣営が全滅状態になるほど 戦力が拮抗した戦いになるはずだった聖戦に、まさに“予定外”の戦況を もたらすことになったのである。

星矢たちが これまで戦ってきた、11人の黄金聖闘士、7人の神闘士、7人の海闘士。
これまでの敵陣営とは桁違いの108人の冥闘士によって構成された冥界軍。
アテナ最大の敵ハーデスが、自軍の構成員として烏合の衆を採用したのだとは考えられないので、それは やはり、この時代の青銅聖闘士たちが、予定外の“些細なアクシデント”を経験することで 強くなりすぎていた――せいだったのだろう。
冥界に下り立った青銅聖闘士たちは、ごく短い時間で、気が抜けるほど 易々と、ほとんど すべての冥闘士たちを打ち倒してしまったのである。
神話の時代から幾度となく繰り返されてきた聖戦。
この時代の聖戦は、かつての聖戦とは まるで様相が異なっていた。

ともあれ、そうして、青銅聖闘士たちが集結したのは冥界の中心ジュデッカ、ハーデスの玉座のある神殿。
そこで、星矢たちは、冥界軍108の魔星を すべて打ち倒した今こそ、真の聖戦が始まったのだということに気付かされたのである。
星矢たち青銅聖闘士が いかに強くなっていたとはいえ、冥闘士たちは あまりに他愛なく倒されてしまった。
にもかかわらず、アテナとハーデスの聖戦が神話の時代から繰り返されてきたということは、つまり、それだけハーデスの力が強大だということだったのだ。

幾多の戦いを経て、青銅聖闘士たちは格段に その力を増していた。
もちろん、アンドロメダ座の聖闘士である瞬も。
だが 瞬は――瞬は、ハーデスに その身体を支配されてしまったのである。
あまりにも簡単に。
瞬は懸命に ハーデスの力に抵抗した――と思うこともできないほど、たやすく。
だから、瞬の仲間たちは、瞬は本気でハーデスの支配に抵抗しなかったのだと思わないわけにはいかなかった。
瞬の中には、おそらく、自分が死んでしまえば、それで聖戦を終わらせることができると思う心があったに違いなかった。
そして、瞬がもし、その運命を 一輝か氷河に結び付けられていたなら、瞬は ここまで簡単に ハーデスに その身体を支配されることにはならなかったに違いなかった。

ハーデスに その身を支配されてから 瞬がやっと抵抗を示し始めたのは、自分が助かるためではなく、自分が解放されるためでもなく、仲間のため、地上世界に生きる人々のためだったろう。
「ハーデスごと、僕を倒して」
ハーデスの支配に必死に抵抗しながら、瞬の声が 瞬の仲間たちの胸に響いてくる。
否、瞬の声は、仲間たちの小宇宙を震わせることで、瞬の仲間たちの耳と心に届いていた。

最悪の事態――アテナは こうなることを懸念して、瞬と瞬以外の人間の運命を結びつけようとしていたのだ。
その計画が実行されていれば、今 瞬は自分の死を仲間たちに求めるようなことはしなかった。
自分の命 一つで世界が救われると思うから、瞬は こんな悲しいことを仲間たちに求めるのだ。
アテナの賢明な計画を頓挫させたのは、瞬の兄と 瞬の恋人志願の男の くだらない いさかいである。
氷河と一輝は、自分たちの愚かさが招いた この事態に、それこそ 自分の命を絶って詫びたいほど深い後悔に襲われていた。
自分の命で どうにかなるものなら――自分の命一つで どうにかなるものなら。
瞬と同じことを、二人は願った。
しかし、その願いは叶わない。

「兄さん、死なないで。兄さんの命は、兄さんだけのものじゃないの」
「氷河、死なないで。氷河の命は、氷河だけのものじゃないの」
鬱陶しい障害物で、憎たらしい邪魔者。
だが、命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間である。
瞬の言う通り、一輝は、氷河は、仲間を道連れにして 死ぬわけにはいかなかった。
少なくとも、自分の意思で己れの命を絶つわけにはいかなかった。

兄と恋人志願の男の正しい考え、正しい判断を、瞬の心は喜んでいる――。
瞬の気持ちがわかるだけに、氷河と一輝が己れ自身に向ける怒りは 尋常のものではなかった。
「無駄な足掻きはやめることだ、アテナの聖闘士たち。もはや 瞬の身体は余の手に落ちた」
「俺たちは、瞬のために死ぬことができないというのに、瞬は俺たちのために死ぬというのか! そんな理不尽があるか……!」
瞬の顔をしたハーデスの――否、ハーデスの顔をした瞬の――眼差しの冷やかさが、氷河と一輝の憤りを更に激しいものにする。
その冷ややかな面差しの向こうに、瞬の涙と微笑が見えるから、二人の怒りは切なかった。

「瞬を助ける! 何としても、瞬をハーデスから解放するぞっ」
氷河が その全身に決意をみなぎらせて、呻くように、断固とした口調で 断言する。
「どうやってだ」
そうできる方法があるのなら 自分がとっくに実行している――と言わんばかりに苛立った声音で、一輝が氷河に問う。
氷河は、瞬の顔をしたハーデスを睨みつけたまま、
「要するに、ハーデスが瞬の身体に留まっていられなくすればいいんだ」
と、応じてきた。
「だから、どうやってだ! 瞬の身体を傷付けても、ハーデス自身はダメージを受けないんだぞ!」
「瞬の身体ではなく、ハーデスの魂にダメージを与えればいいんだろう」

氷河には、何らかの策があるらしい。
“氷河が思いついた策”。
それだけで、一輝は 成功する気がしなかったのだが、自分では良策を思いつけずにいた一輝としては、たとえ成功の可能性が0.0001パーセントしかないのだとしても、可能性がゼロでないのなら その策を試してみずにはいられなかった。
「ともかく、身体は瞬なんだ。俺に策がある。俺が瞬に近付く隙を作れ。一瞬でいい。その隙を突いて、俺がシベリア仕込みの――」
「おい。貴様、まさか、あのシベリア仕込みの足封じ技とかいう ろくでもない技で ハーデスの動きを封じるつもりか? 相手は 仮にも冥府の王、そんなことができるとは思えんぞ。たとえ できたとしても、おまえが封じることになるのは瞬の身体で――」
「違う。いいから、言う通りにしろ。一瞬でいいから、ハーデスの意識を俺から逸らせ」
「ええい、くそっ。こういう時、瞬のチェーンがあれば……」
普段は瞬の本気の力を封じることにしか役立たないアンドロメダ聖衣の鎖。
あれは 実に便利な道具だったのだと、今になって 認識を新たにする。
だが、あの便利な道具は今は使えない。
一輝は、ハーデスの気を逸らすために、自らの身体を張るしかなかった。

「あれは瞬の身体、あれは瞬の身体」
氷河が何やら自分に言い聞かせるように、ぶつぶつ口の中で言っている。
「よし、行くぞ」
一輝が鳳翼天翔の態勢に入る。
氷河のダンス、ミロの海老反りと並ぶ、アテナの聖闘士 三大奇矯前振りの一つ、鳳凰の羽ばたきのポーズ。
人体の動作に関するハーデスの感性は、常識的な人間のそれと同じものを有していたらしく、彼は、一輝の腕と足の奇妙奇天烈な動きに、人間の一般人がそうであるように 見事に あっけにとられ、一瞬どころではない長さの隙を作った。
氷河が その隙を突いて、素早く ハーデス瞬の眼前にまで移動する。
次の瞬間、
「氷河ーっ! き……貴様、俺の最愛の弟に何をするかーっ!」
と叫んだのは、氷河の策に落ちたハーデスではなく、瞬の兄だった。

当然である。
一輝の羽ばたきポーズによってできたハーデスの隙。
その隙を突いて瞬の至近距離に移動した氷河は、そのまま瞬の身体を抱きしめ、あろうことか、自分の唇で瞬の唇を ふさいでしまったのだ。
瞬の顔をしたハーデスが、反射的に氷河の身体を突き飛ばそうとする。
「は……離せっ! 余に その趣味はない。いや、ないこともないが、余の趣味はもっと高雅で洗練されていて――」

氷河を突き飛ばそうとしたのは、瞬の腕。
ハーデスの神の力ではない。
もちろん 氷河は、そんな攻撃には びくともしなかった。
氷河は今、怒りともいえない怒りに支配されていて、瞬の細腕ごときで 彼の怒りを消し去るなど、到底 不可能なことだったのだ。
「やかましい! 口をきくなっ。俺は今、懸命に、これは瞬の身体だと自分に言い聞かせているんだっ!」
そう怒鳴って、氷河が 再度、自身の唇で瞬の唇をふさぐ。

そこにいるのは、ハーデスなのか 瞬なのか。
不測の事態に、瞬の身体は身じろぎ一つできなくなっている。
あるいは、ハーデスの魂が硬直し、いかなる活動もできなくなっている。
「この期に及んで、やっと協力し合う気になったのかと思ったら……」
「シベリア仕込みの口封じ技か。確かに強烈至極な技だが――」
一輝と氷河に すっかり その存在を忘れられていた星矢と紫龍が、氷河の恐るべき技に のんきに感心する。
だが、氷河の恐るべき技を正面から(?)食らってしまったハーデスは、感心する余裕も感動する時間も持つことができなかったらしい。

瞬の顔が 苦痛に歪んだのは、ハーデスの魂が受けた衝撃の激しさを物語るものだったろう。
氷河の二度目のキスが始まって1分も経たないうちに――それでも ハーデスは1分弱もの間、その技に耐え抜いたのだ――ハーデスは、自らの敗北を認め受け入れてしまったようだった。
「これ以上、この身体に留まっていることはできぬ……!」
瞬の唇ではなく、ハーデスの魂が生んだ呻き声。
「ハーデスの魂が、瞬から離れた!」
星矢の歓声と、力を失った瞬の身体が 氷河の胸の中に倒れ込むのが、ほぼ同時。
「氷河っ、きっさまーっ !!」
一輝が氷河に殴りかかろうとするのと、
「一輝、喧嘩はあとだ。ハーデスを追うぞっ」
紫龍が 一輝の襟首を掴んで、鳳凰座の聖闘士に方向転換を強制したのが、ほぼ同時。

「神話の時代から続いてきたアテナとハーデスの聖戦、俺たちが終止符を打つぞ!」
とにかく今は、一時的にでも、一輝の意識からシベリア仕込みの口封じ技の記憶を消し去ることが 最優先課題。
星矢は、その場の空気を緊張させ、戦闘ムードを盛り上げることで、一輝を煽った。
「う……うむ……」
ハーデスを追って駆け出した星矢と紫龍の後に続かないわけにもいかず、一輝は―― 一輝もまた、この戦いのラスボスを追って走り出す。
そして、走り出したら止まらないのが アテナの聖闘士たちだった。






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