瞬の兄が、瞬の前から姿を消したのは、瞬が13歳の時。 瞬はもちろん、村の最高齢の者でさえ これまで一度も見たことのない不吉な色に、海が染まった日。 『漁師の守護聖人 使徒アンデレが、我等に何かを伝えようとしているんじゃないか?』と村人たちが、大人も子供も浜に出て騒いだ春の日のことだった。 まもなく 不吉な色は元の青色に戻り、特段 海が荒れるようなこともなかったのだが、村人総出の騒ぎの中、瞬の兄の姿は 忽然と いずこかに消えてしまったのである。 幼い頃に両親を亡くし、肉親は兄一人。 二人きりの兄弟は、海に面した小さな村の外れで、常に寄り添うようにして生きてきた。 生活面では言うに及ばず、瞬にとって 兄は、何よりも心の支えだった。 その兄が失踪してしまったのである。 それは、瞬には大変な衝撃だった。 兄の失踪は、喪失感、諦観、絶望、そして 恐怖を、瞬の許に運んできた。 瞬の兄 一輝は、失踪時、10代半ばの子供とは思えないほど たくましく、力も強く、豪胆な少年だった。 それゆえ、瞬の兄が忽然と村から姿を消した時、村の大人たちは、海賊か山賊、あるいは それらに類する者たちが 自分たちの仲間に仕立て上げるために、瞬の兄を さらっていったのではないかと語り合っていた。 オスマントルコのスルタンは、有望な異教徒の少年をさらっていって、スルタン直属のイェニチェリ軍の兵にするそうだ。 イギリス海軍とスペイン海軍が海の覇権を巡って対立し合い、近く決戦が起きるだろうと噂されているから、そのいずれかに与する者が 屈強な水兵を求めて かどわかし同然で連れ去ったのではないか。 いやいや、イギリスが求めているのは 正規の兵士ではなく、他国の船を襲う海賊だろう――。 村人たちは そんなことを噂していたが、そうではないことを 瞬は知っていた。 そうではないだろうと、察していた。 兄は、異端――人間として異端だから、そういった者の存在を許さない 何らかの力か組織によって消されたのだ。 瞬は そう考えていた。 普通の人間ではないから、普通の人間によって営まれている この世界から、兄は消し去られてしまったのだ――と。 瞬と瞬の兄には、幼い頃から不思議な力が備わっていた。 兄の一輝には、炎を生み 操る力、瞬には、風を生み 操る力が。 精神的に落ち着いている時には、その力を有効有益に使うこともできるのだが、感情が昂ぶっている時に その力が働くと、意図せず、とんでもない災厄を招くことがある。 瞬の兄は、幼い頃、仲のよかった少女が事故で亡くなった時、行き場のない怒りに支配され、その激昂のせいで 山火事を起こしかけたことがあった。 瞬も、巣立ちを楽しみにしていた小鳥のヒナが鷹に襲われ 無残なことになった時、悲しみのあまり 無意識のうちに その力が働いて、村を暴風で壊しかけたことがある。 もちろん、その時には、誰も その“自然現象”を 瞬や瞬の兄に結びつけて考える者はいなかった。 だが、もし、そんな力を持っていることが余人に知れたら、兄弟は 人々に忌み嫌われ、普通の人間たちの社会から排除されることになるだろう。 力のことは 絶対に他人に知られては駄目だと、幼い頃から、兄弟は 両親に繰り返し言われていた。 両親が事故や病で亡くなってからも、兄弟は 常に注意深く 振舞ってきた――自分たちの力を ひた隠しに隠してきた。 おそらく、兄は、その力のことを 誰かに知られ、そのために何らかの災厄に見舞われたのだ。 でなければ、兄が何も言わず 弟の前から姿を消すことは 考えられない。 それが、瞬の絶望と恐怖だった。 「兄さん……兄さん……」 遠い異国の軍隊の兵士になっているのなら、どんなにいいか。 海賊として大海原を冒険しているのなら、どんなにいいか。 兄が死んでいないのなら、それ以上は何も望まない。 兄が生きていてくれさえするなら、瞬は、自分が一人だけで生きていかなければならないことにも耐えることができた。 だが、兄の命は既に この地上にないのかもしれない。 生きているなら、兄は何としても弟の許に戻ってくるはずだったし、それが不可能でも、何らかの連絡をくれるはず。 それがないのだから――瞬は 兄の命に希望を持つことができなかったのである。 いっそ 自分も死んでしまおうと、幾度 考えたかしれない。 それは一度や二度のことではなかった。 にもかかわらず、瞬が死んでしまえなかったのは、村人たちが、一人きりになった瞬を気遣い、親切にしてくれたから。 浜は狭く、大型の船は持てない小さな漁村。 浜に迫る山は険しく、そこには 麦を育てるような畑も作れない。 ささやかな平地で 細々と野菜を育てるのが精一杯。 そんな村では、人々は――大人も子供も、男も女も――互いに助け合わないことには、日々の暮らしを成り立たせることができなかったのだ。 村外れの家で 一人きりで暮らす瞬を案じ、ちょっとした雑貨や食べ物を携えて 瞬の許を訪ねてくれる村人は幾人もいたし、瞬に 家族として共に暮らそうと言ってくれる村人も幾人かいた。 ただ一人の肉親を失った瞬に、村人たちは誰も優しかった。 だが――。 自分の力のことを知ったら、この優しい人たちの態度がどう変わるのか――それを考えると、瞬はとても他人と同じ家で暮らすことはできなかったのである。 彼等と同じ家で暮らすことは、力の存在を“普通の人”に知られる危険を増すことと同義だった。 しかし、そんなふうに村人たちの優しい心のせいで、瞬は死ぬこともできなかったのだ。 日々の暮らしは、瞬一人でも 困窮することはなかった。 小さく古いものではあったが、両親の残してくれた家はあったし、暖かい季節には、船がなくても 海に入れば魚や貝を獲ることができる。 冬場には蔓で魚網や魚籠、漁具や雑貨を作り、それらを村人たちに提供していた。 手先が器用で 仕事の丁寧な瞬が作る それらのものは、村人たちに重宝されていた。 何より 瞬は真珠取りの名手ということになっていたのだ。 瞬が泳ぎの巧みなことを知っている村人たちは、瞬が 真珠を蓄えた貝を多く見付けられることを 特に不思議に思っていないようだったが、実は 瞬は、海の底で 温かい風を生んで水温を上げ、そこで アコヤ貝を育てていたのだ。 腹の足しにもならず、ただ美しいだけの真珠は、瞬にも村人たちにも 何の役にも立たないものだったが、村の外には それを求める者が多くいた。 不漁が続く時期、瞬が海の底から集めてくる白い球は、村人たちの食糧を手に入れるのに大いに役立った。 兄がいなくても、瞬は、“村”という共同体の一員として 生きていることだけはできたのである。 ただ、途轍もなく寂しいだけで。 ただ、途轍もなく不安なだけで。 |