海の上にある太陽は 少しずつ西に傾き始めていた。 とはいえ、陽光は まだ赤味を帯びておらず、彼の髪と同じ金色。 海も空も、彼の瞳と同じ色。 夕刻までには、まだ間がある。 この人になら命を奪われても 喜びを得ることができるだろうと 瞬が思った金髪の異邦人は、瞬より幾つか年上で――つまりは、まだ若く――背の高い青年だった。 健康で 鍛えられた体躯に、海辺の住人らしい手足を剥き出しにした麻の短衣をまとっている。 町の人間が着るような 手足を覆う服を身に着ければ、鍛えられた四肢が隠れ、彼は柔弱な貴族の子弟に見えるかもしれないと、彼の整った顔立ちを見て、瞬は思った。 だが、すぐに その考えを振り捨てる。 この冷たいほど鋭い眼光は、厳しい自然の中で育まれたもの。 彼は どれほど豪華な衣装を まとっても、ひ弱で優雅な貴族の振りすらできない。 だが、だからこそ彼は美しい。 何より、この均整のとれた見事な肢体を布で隠すのは勿体ない。 そんな妙なことを 瞬は考え、そんなことを考えている自分に、瞬は戸惑ったのである。 その戸惑いを振り払うために、 「あなたは どこから来たの」 と訊いてみる。 彼は、その質問に答えるべき否かを、瞬時 迷ったようだった。 彼の顔を見上げている瞬の瞳を しばらく無言で見詰め、見下ろし、それから瞬同様 何かに戸惑ったように、瞬の上から視線を海の方に逸らす。 そのまま――瞬を見ずに、沖に視線を投じたまま――彼は彼の身の上を 瞬に語ってくれた。 彼の名は氷河。 瞬が暮らす村より ずっと北の、やはり浜辺の村で、彼は生まれ育ったのだそうだった。 そして、彼の持つ異端の力を村の人々に知られたせいで、生まれ育った村を追われることになった。 彼の力は、凍気を生んで、あらゆるものを凍りつかせる力。 ある時、浜辺で遊んでいた子供が波に呑まれ 沖に流されそうになった時、その子供を助けようとして 海を凍らせたために、彼の持つ異端の力が村人たちの知るところとなってしまったらしい。 「俺は ガキの頃、たった一人の肉親だった母親を海で亡くしていたから、海で死ぬ者を見たくなかっただけなんだが……」 それを悪魔の力だと、彼の隣人たちは決めつけた。 「普段は、人目につかないところで、海ではなく川を堰き止めて 魚を獲ったり、獣を凍らせて動きを封じ、鹿や兎を獲ったりしていたんだ。俺の力は、罠や銃がなくても、そんなもの以上に役に立ってくれる便利な力で――俺は、その力を使って捕えた魚や獣を村人たちに分けてやったりもしていたんだがな」 氷河の力の恩恵を受けていた村人たちは、自分たちと違う力を持つ者を、悪魔と邪悪な契約を結んだ者と見なし、氷河に村を出ていけと、武器を持って脅してきたのだそうだった。 「俺が助けた子供の両親が、その先頭に立っていた。他の村人たちに 俺と関わりがないことを示す必要があったから、仕方がなかったんだろうが」 「氷河……」 「ま、反撃して、せっかく助けた子供から親を奪うようなことをするわけにはいかなかったしな」 そう言って 苦い笑みを浮かべる氷河の様子が 切ない。 こんなに美しい人が、自分のためではなく 人のために その力を使い、そのせいで人々に排斥されるなど、理不尽にすぎる。 悪魔が そんなことをするわけがないのに。 氷河を自分たちの村から追い出そうとした人たちこそ 冷酷な悪魔だと、瞬は思った。 冷たく見える氷河の青い瞳。 氷河の瞳を冷たくしたのは、氷河を排斥しようとした村人たちの非情。 そして、その非情のせいで、氷河が知ることになった孤独と空しさなのだ。 これほど強靭で頑健な肉体を持った人が、彼より非力で みすぼらしい人々の無慈悲な所業に傷付き、瞳を孤独の色に染めている。 そんなことがあって いいものだろうか。 瞬の瞳には涙が盛り上がってきた。 瞬の涙に気付いた氷河が、困惑したように 瞬きを繰り返す。 「何も おまえが泣くことは――」 瞬きをするたびに、氷河の瞳が その冷たさを減じていくように、瞬の目には映ったのである。 それは もしかしたら、自分の涙のせいで そう見えるだけなのかもしれないとも思ったが――否、やはり、氷河の瞳は少しだけ 温かくなっていた。 しかし、それは、氷河にとって よいことだったのか どうか。 温もりを取り戻した分、氷河の瞳は寂寥の色を濃くしたように、瞬には感じられた。 氷河が、寂しそうな嘆息を洩らす。 「ここでも、力を隠して暮らさなければならないのか……」 独り言のような氷河の その呟きを聞いて、瞬は気付いた。 氷河は、どこか――力を隠さなくても生きていけるような場所を探しているのだと。 ここが その期待に沿う地でないと知った氷河は、彼の望みが叶う地を求めて、どこかに行ってしまうのだ――。 そう思い至った途端、瞬は、自分でも思いがけない言葉を氷河に告げてしまっていた。 「あ……あの! あの、ち……力は隠さなきゃならないけど、でも、もし家がないのなら、僕の家に――ずっとじゃなくてもいいから、しばらく僕の家に……。ぼ……僕の力は、この村の人たちには知られてないの。村の人たちは みんな、親切で、いい人ばかりだよ!」 「俺が暮らしていた村の者たちもそうだった。俺の力を知るまでは」 「……」 悲しく切ない氷河の答えが、瞬から言葉を奪う。 瞬は 肩を落とし、唇を噛みしめて、顔を伏せた。 では、氷河は、やはり この地を去り、どこかに行ってしまうのだ。 そして、自分は また一人になる。 それで、これまでと何が変わるわけでもないのに――氷河が この村を去っても、これまでと同じ日々が続くだけなのに――瞬は寂しくてならなかった。 だが、そんな瞬に与えられた氷河の返答は、瞬が覚悟していたものとは違っていた。 それは、思いがけず 嬉しいものだった。 「しばらく、世話になってもいいか」 そう、氷河は言ってくれたのだ。 氷河が 瞬に そう言ってくれたのは、彼も孤独に慣れることができずにいたからだったのかもしれない。 一人でいることを、彼も つらいと感じていたからだったのかもしれない。 「うん!」 氷河が考えを変える前に――。 瞬は自分でも驚くほどの勢いで、氷河に頷き返していた。 涙が、一瞬で乾いてしまったのが、瞬にはわかった。 そうしようと意識したわけでもないのに、口許が ほころぶ――自然に笑顔が生まれてくる。 これほど明るく晴れやかな気持ちになったのは、兄が行方知れずになってしまった、あの日以来。 自分は こんなにも 一人がつらかった。 あらゆる人に隠し通さなければならない秘密を抱え、たった一人で生きていることが、これほどまでに つらかったのだと、瞬は 今 初めて気付いた。 氷河の気が変わる前にと、急いで彼の手を掴む。 早く彼を家に連れていって、再び歩き出すことを面倒に感じられるように 彼をくつろがせてしまわなければ。 そう考えて、瞬は気が急いた。 そんな瞬の性急を、氷河はどう思ったのか。 もしかしたら 彼は何も思わなかったのかもしれない。 瞬の性急を奇異に思うこともしなければ、瞬の孤独に思いを至らせることもしなかったのかもしれない。 氷河は、そんなことには言及しなかった。 客人を急かす瞬に微笑んで、 「おまえ、綺麗だな。歪みのない純白の真珠のようだと思っていたが、笑うと花のようだ」 と言っただけで。 「え?」 瞬は 暫時、自分が何を言われたのか、よくわからなかった。 |