瞬が運ばれてきた城は、瞬が察した通り、ドイツの山岳地帯にある城だった。
そして、城の主は、あの漆黒の神ではなく、この城で最初に瞬を迎えてくれた黒衣の女性――パンドラという名の女性――だった。
そのことを、瞬はパンドラ自身から知らされた。
沈黙を守ることが 自分の務めと思っているような彼女のために、瞬もまた 彼女の前では沈黙を守っていたら、パンドラが 自分の方から瞬に語りかけてくれたのである。
彼女は 存外に優しい女性のようだった。

「あなたは あの漆黒の神に仕えているの? あの男は神?」
「私は、あなたに仕えるように言われています。この城での あなたの一切の世話をするようにと」
「あなたに それを命じたのは誰」
「この城の内で その名を口にすることは禁じられています」
漆黒の神のことについては 何も語ってくれなかったが、彼女は 細やかな気配りのできる親切な女性だった。
漆黒の神と アンドロメダの聖闘士の やりとりを聞いていて、彼女は 瞬の身が――というより、心が――心配になったらしい。

「なぜ 自分だけが こんな目に会わなければならないとだと憤って、泣き叫んでくれたなら、私は もっと おざなりな お世話もできましたのに」
そう言いながら彼女は、白い手指で 慈しむように 瞬の髪まで梳いてくれた。
それは それで、個人の尊厳を侵されているような気がしないでもなかったのだが、彼女は自らの意思で――もとい、意思ではなく喜んで――そうしてくれていることが感じ取れるので、瞬は彼女の気遣いに 何とか耐えたのである。


まるで中世に建てられた城のように、その城の部屋は どこも薄明るかった。
“薄暗い”ではなく“薄明るい”と感じるのは、そうしようと思えば いくらでも明るくできる城内を、誰かが――おそらく、パンドラではなく漆黒の神が――わざと明るくしていないように思えるから。
城は中世どころか近代――少なくとも、この200年の内に建てられた建物のようだった。
もし もっと古い時代から この場所にあったのだとしたら、幾度も増改築を繰り返してきた城である。
実際 瞬は、そこで、城戸邸にいた時と大差ない生活をすることができた。

時折 あの漆黒の神が姿を現わす他には パンドラしかいないような城。
広い城は、どう考えても 女性一人で維持できるものではないのだが、瞬は そこで黒衣の二人以外に動く者を見ることはなかった。
一度だけ、影のような二人の男が 瞬の前に姿を現わしたことがある。
実体なのか幻影なのか 判別できない程度の輪郭を持つ、全く同じ顔をした二人の男。
彼等は 黒色ではなく、それぞれに金色と銀色で その身を飾っていた。
その二人は、博物館の展示物を鑑賞するような目で、瞬を眺めていた。
瞬の視線を一切 無視して。
自分たちが瞬に見られていることを完全に 気に留めていない様子で。
彼等は一方的に瞬を見て、そして 瞬を嘲笑していた。

「忌々しいほど澄んだ瞳だな」
「清らかな者は、汚すことでしか楽しめない。しかし、汚した途端に、その価値を失う。厄介な玩具だ」
「この者の肉体を 我等が弄んでも傷付けても、この者の魂の清らかさは損なわれまい」
「しかし、――様のものとなる身体。畏れ多くて、滅多なことはできぬ」

この二人は何者で、何のために この場に姿を現わしたのか。
漆黒の神ほどの存在感はないのに、漆黒の神よりアンドロメダ座の聖闘士を侮り軽んじているように見える二人の男。
薄明るい部屋の中央で、瞬は、それこそ 博物館の展示物よろしく、無言で立ち尽くしていることしかできなかった。
その時 パンドラが部屋の中に入ってきて――そのせいかどうか、二人の男の姿は徐々に薄れ消えていった。

二人の姿は、パンドラにも見えていたらしい。
「瞬様の清らかなことを確かめに来たのか……」
低く呟き、不愉快そうに眉をひそめ、だが、彼女は、それ以外、それ以上のことは 何もしなかった。
漆黒の神ほどではないにしろ、二人は どうやらパンドラより上位にあるものらしい。
瞬は、パンドラのために、彼女に二人の正体を問うことはしなかった。
二人は、おそらくは漆黒の神を はばかって、瞬に危害を加える気はないようだったので。

その漆黒の神自身、時折 実体なのか幻影なのか判別できない姿を 瞬の前に現わし、実体なのか幻影なのか判別できない手で 瞬に触れることはしても、暴力めいたことをする気配は全く見せなかった。
彼は専ら 言葉で瞬を弄び――口頭試問のようなことをしては、そのまま消えていくのが常だった。
「まだ時は満ちておらぬから」
何のために“生贄”に そんなことをするのか わからないまま――問うても、彼は答えてくれなかった――瞬は 彼に弄ばれ続けていたのである。






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