「そなたは、現在の地上世界をどう思う。弱者が強者に虐げられ、争い、戦い、美しい世界の姿を汚すことによって、自らも醜くなっている。いっそ 滅んだ方が、地上世界のためにも、そこに生きている人間たちのためにも 良いことだとは思わぬか」
「いつか、人は自らの過ちに気付き、その過ちを正します。きっと、いつか」
そんなことを、この地上世界で生きていくことしかできない人間に問うて 何になるのだろう。
瞬は、そう答えることしかできなかった。
その答えをしか持っていなかった。
この地上世界には 美しいものもあるということを認めるつもりもないらしい神に、他にどんな答えを返すことができるというのか。

「アテナは、幼い少女だった頃、随分と我儘な“人間”だったらしいが」
「アテナは、人間として成長することで、人間の弱さや強さ、醜さや美しさを知って、人間を理解することをしてくれました。神はどうなのか知りませんが、人間は変わるものなんです」
だから、いつの日にかと 期待することもできる。
であればこそ、アテナの聖闘士たちは 地上世界と そこに生きる人々を守るために 命をかけて戦うこともできるのだ。

「では、フェニックス――そなたの兄をどう思う」
「強くて、優しい人です」
「一度は、生きることの試練に打ちのめされ、そなたたちを裏切った 心弱い男だろう」
「その弱さゆえに、兄は強いんです」
「ああ。人は変わるもの――なのだったな。余には 詭弁としか思えぬが。では、ペガサスはどうだ」
「まっすぐで、明るくて、いつも 力と希望に満ちていて――なれるものなら、星矢のようになりたいと、僕は いつも思っています」
「ただの軽薄だ。では、ドラゴンは」
「紫龍は――紫龍は、僕たちの中で最も肉親の愛を知らずに生きてきて、でも、だからこそ、人間の愛や信頼の大切さを 誰よりも知っている。僕たちの中では、最も甘えのない人間です」
「ただの頑迷だ。人は愛し合い信じ合うべきだという信仰に 頑なに囚われている者にすぎない」
「……」

そんな見方しかできないのなら、なるほど この神は、地上に存在する美しいものを その心に捉えることはできないだろう。
そう、瞬は思った。
人は 確かに、正しい強さのあり方も、正しい希望の持ち方も、正しい愛のあり方も知らない。
だが、だからこそ、それを求めてやまないというのに、そのために懸命に生きているというのに、この漆黒の神は、そんな人間のあり方を認めようとはしないのだ。

この神は、次に、氷河について問うてくるのだろうか。
肉親の愛を知り、失い、それゆえに脆く、冷たさの鎧で必死に自分を守っている氷河。
おそらく アテナの聖闘士の中で最も人間らしい――良くも悪くも人間らしい氷河。
それゆえに、愛される術に長けている氷河。
自身を神だという男は、誰よりも人間である氷河を どう評するのか。
瞬は、漆黒の神が 次に口にするだろう質問を恐れたのだが、彼は 瞬に その質問を投げてはこなかった。

「キグナスは――あの者は、聖域での戦いで 最も深い痛手を被り、大切なものを失う。あの者を悲しませないために、そなたはここに来た。そうであろう」
「あ……」
瞬は答えに窮した。
この男の前で 瞬が言葉に詰まったのは、それが初めてだったかもしれない。
問うても無駄、応じても無駄と考え、自分の意思で沈黙したことはあったが、発する言葉を思いつけなかったのは、瞬は これが初めてだった。
瞬の返答を、しかし、漆黒の神は待っていなかった――彼は、それを、最初から求めていなかったようだった。
「鬱陶しい。あれが最も邪魔な男だ」
彼は 瞬に問うまでもなく、自身の結論を 既に得ていたらしい。
低く 冷やかに そう言って、彼は それ以上 氷河について言及することはしなかった。
瞬を戸惑わせたまま、次の議事に移行する。

「そなた、性欲はあるか」
氷河について問われるより、よほど答えやすい質問である。
瞬は、胸中で安堵の息を洩らした。
「あると思います」
「ならば、余が そなたに何をしようとしているのか わかっているか」
「おぼろげに」
氷河を語っていた時とは異なり、漆黒の神は 今は楽しげだった。
楽しそうに、彼は笑った。
「愉快な答えだ。はっきりとは何もわかっていないくせに。このところ、そなたは 余に触れられるたびに、何をされるのか わからず、怯えて びくびくしている」

それは身体だけのことで、意識では 恐れてはいない。
瞬自身は そのつもりだった。
死を覚悟して、ここに来たのだ。
恐れることなど何もない。
それでも身体が震えるのは事実だったが。
いずれにしても、それは さほど重要なことではない。

「あなたには、仲間や――愛する人はいないの? だから、僕の仲間たちを そんなふうに突き放したように語るの? あなたは――寂しいの?」
「寂しい? それは、一人では生きられない人間の発想だ」
瞬には、神の価値観というものは わからなかった。
だが、神が人間の上位に位置し、人間を支配しようとするものであるのなら、神は人間の価値観を知っているべきだと思う。
「人は一人では生きられない。だから、人は愛を生み、愛に価値があると思うんです」
「そなたは、そなたを愛する者を悲しませても、我が身を犠牲にしようとしている。それを罪だとは思わぬか。愛への裏切りだと」
「そうなのかもしれない。でも、そうせずにはいられないから、僕はそうするんです。それが意思によるものなのか、意思とは違う力によるものなのかは、僕自身にも わからない。でも、僕は決して 犠牲的精神で そうするわけじゃない。僕は、そうせずにいられないから そうするだけ」
「それは 大いに結構。そなたは、確かに清らかだ」

アテナと他の神を分けているのは、人間の価値観を知っているかどうか、それを認められるかどうかということなのかもしれない。
そして、漆黒の神は それをしない。
彼は、彼自身の快楽、彼自身の楽しみにしか関心がないのだ。
それが神というもので、神として特異なのはアテナの方なのかもしれない。
ならば、アテナの聖闘士は――人間は――アテナという女神が存在することに、心から感謝すべきだろう。
瞬は、そう思った。
そして、瞬は、漆黒の神の判断に、全く賛同できなかった。

「僕は、弱くて、その弱さのために罪を犯す、愚かな人間です。真の強さがどんなものなのかも、真の希望の姿も、真の愛の姿も見えていない――わからない。そんな人間が 清らかであるはずがないでしょう」
それが、人間としての瞬の価値観で判断した“瞬”という人間の評価だった。
謙遜でも 卑屈でもない。
もちろん、卑下でも 自虐でもない。
漆黒の神は、だが、瞬の判断を受け入れなかった。
「そなたは、不完全な人間としては、ほぼ完璧に 清らかな魂を持っている。アテナの聖闘士であることが唯一の欠点。アテナの聖闘士でさえなければ、美しく清らかなばかりの最高の器。……いや、アテナの聖闘士だからこそ、完璧なのか。余は大いに そなたを気に入っているぞ」

冷ややかな――否、冷静な微笑。
瞬には理解できない言葉。
瞬の唇に触れてくる彼の唇には温度がない。
彼が求める生贄とは何なのか。
彼は、彼の生贄に何をさせようとしているのか。
彼の真の目的が、瞬には どうしても わからなかった。






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