殺生谷で命を落としたと思っていた一輝が生きていたことがわかった時、これで自分は 仲間を信じ切れない不快な状況から抜け出すことができると、星矢は心を安んじたのである。
ところが、一輝が生還しても、星矢は平穏な日々を手に入れることはできなかった。
一輝は生きていたというのに、瞬はもう 兄の仇を討つ必要はなくなったというのに――“単純でない”瞬は、憤りとも憎しみともつかぬ あの眼差しで 氷河を睨むことをやめなかったのだ。
一輝の生還後も、そんな瞬の姿を、星矢は幾度も目撃することになった。

「なんでだよ! 一輝は生きてたんだから、瞬は もう一輝の仇討ちなんかする必要はないだろ! なのに、なんで 瞬はいつまでも――」
いつまでも氷河を、瞬らしくない目で睨みつけることをやめないのか。
氷河に向けられ続ける、憤っているような、憎んでいるような、悲しんでいるような、瞬の眼差し、その表情。
星矢には、瞬が何を考えているのかが まるでわからなかった。
一輝は生きていた。
瞬は もう、氷河に復讐するための理由も必要性も持っていない。
それは一輝の生還によって消滅したのである。
だというのに、瞬は なぜ、あの不可解な目を氷河に向け続けるのか――。

「瞬の目的は、一輝の仇を討つことではなく、兄を侮辱した者を倒して、兄の名誉を回復することだからなのではないか? 瞬にとって、一輝は、それこそ神にも等しい存在だったからな。一輝がいなければ 自分は生きていられなかった――そう信じている人を侮辱されたんだ。一輝が生きているか 死んでいるかということは、瞬には 既に 二次的なことになっているのかもしれん。氷河は――瞬の信仰を貶めたんだ」
「信仰……って……」
紫龍の持ち出した言葉に、星矢は しばし あっけにとられた。
もちろん、信仰というものの厄介さは 星矢とて承知していた。
無宗教者が世界人口の3割を占める現代にあってすら、世界の紛争の多くには 宗教の対立が絡んでいるのだ。
それが理性や利害を超えたところにあるものだということは、知っている。
しかし、瞬が そこまで蒙昧な人間だとは、星矢には思えなかった――思いたくなかった。
そんな星矢に、紫龍が冷水を浴びせかけるようなことを言ってくる。

「他のことなら いざ知らず、一輝のこととなると、瞬の執念深さは尋常のものじゃないぞ。子供の頃、一輝が沙織さんのイヤリングを盗んだと 泥棒の濡れ衣を着せられたことがあっただろう。あの騒ぎの顛末を忘れたか」
「え……」
紫龍に そう言われて、星矢は、その途轍もない顛末を思い出したのである。

それは、大事件ではあったが、当時としては ごく些細なこと――日常茶飯の事から始まった。
幼い沙織のイヤリングが(それが本物の宝石だったのか 子供の玩具にすぎなかったのかは、星矢も知らない)、城戸邸に集められた子供たちが体練の場としていたジムの前の庭に落ちているのに気付いた辰巳が、
「盗んだのは誰だ!」
と、子供たちに向かって怒鳴り出したのだ。
落し物にすぎないのかもしれないものを盗品にしようとしている辰巳に腹を立てた一輝が、辰巳に、
「そんなものを欲しがる奴なんか、俺たちの中にはいない」
と応じ、その口答えに出会った辰巳は 嬉々として、そのイヤリングを盗んだ犯人を一輝と決めつけ、散々に一輝を殴りつけた。
――そういう、ごく ありふれた騒動。

「辰巳が言い掛かりをつけて俺たちを殴るのは いつものことだったし、どうせ お嬢様が 忘れたか落としたかしたのだと思って、俺たちは 次の日には そんなことをすっかり忘れていた。おそらく、辰巳に殴られた当の一輝でさえ。だが、それから 半年も経ってから、瞬が犯人を見付けてきた」
「ああ。あれ、確か、カラスが沙織さんの部屋から盗んで、自分の巣に運んでたんだよな。城戸邸から2キロも離れたところにある公園の中の林に巣を作ってたカラスで、瞬の奴、公園の管理人に泣きついて 巣の中を調べてさせて、そのことを辰巳の前で証言までさせた。あの管理人、いい迷惑だったろうな」
「どうすれば沙織さんのイヤリングが ジムの前に落ちていることになるのか、機会を見付けては訓練を抜け出して ずっと見張っていたというんだから、恐れ入った話だが、そこが泥棒カラスの飛ぶルートになっていたということに気付いた観察力もすごい」
「そのカラスの巣の中に、もう片っぽのイヤリングもあったのが決定的証拠」
「その事実を突きとめたあとの瞬がまた、すごかった」

公園の管理人という大人の証人が出てきたのでは、辰巳も その事実を認めないわけにはいかなかった。
とはいえ、そんなことで しおらしく一輝に詫びを入れるような辰巳ではない。
だからどうだというのだと言わんばかりの態度の辰巳に、あの瞬が、
「兄さんに謝って!」
と、食ってかかっていったのだ。
辰巳は 当然、瞬の訴えになど取り合わず、その場を立ち去ろうとし、そんな辰巳に、瞬はかじりついていった。
「謝って! 兄さんは 泥棒なんかしない!」
あまりにしつこい瞬に辟易した辰巳は、結局 瞬に根負けして、
「ああ、わかった。一輝は泥棒じゃなかった。それでいいだろう!」
と、瞬の訴えを認めて逃げていったのだ。
辰巳が その騒ぎを城戸翁に知られることを恐れたせいもあったのだろうが、それは まさに瞬の完全勝利だった。

「あの時、俺たちは、非力な子供でも、その気になれば 辰巳に――大人に勝てるということを、初めて知ったんだ」
しみじみと、紫龍が呟く。
星矢も、そんな紫龍につられて、つい頷いてしまった。
「一輝の名誉を守ることは、瞬にとっては 自分の信仰を守ることと同義。瞬は、一輝のためになら、どんなことでもする弟なんだ、それこそ神に殉ずる殉教者の執念深さで」
「でも、あの時の瞬は、執念深いっていうより、一輝にかけられた濡れ衣を晴らすために必死だっただけだろ」
「今も同じだ」
「いや、でも、だからって、まさか……」
かなり無理をして作った星矢の空笑いが、真顔の紫龍に出会って、思い切り 引きつる。
星矢は、紫龍の言うことには一理があるような気がしてきた。

半年間、誰にも悟らせず、兄の名誉回復のために雌伏していた瞬。
あの時 瞬は、僅か7、8歳の子供だった。
今なら 瞬は、もっと巧みに本心を隠し通し、敵を油断させることもできるだろうし、するだろう。
その上 瞬は、あの頃とは段違いに強くなっているのだ。
一輝の生還で すべてのことに片が付いたと思うのは、危険極まりないことなのかもしれない。
氷河と氷河の周囲の人間が そう思い込み 油断することは、氷河への復讐を企む瞬を利するだけのことなのかもしれない――。

まさか そんなことがと思う一方で、今の瞬なら、あの目をした瞬なら、それくらいのことは簡単にできてしまうかもしれないという疑いの心が、星矢の中で頭をもたげてくる。
生還した一輝が『群れるのは嫌いだ』と 訳のわからないことを言って、瞬の許を去ってから、氷河を凝視する瞬の眼差しは 更に熱を増した――ように、星矢には感じられた。
兄が 自分の側にいてくれないのは、殺生谷でのことがあったから。
もし瞬が そう考えているとしたら、氷河を凝視する瞬の視線の一層の激しさにも 説明がつく。
おかげで星矢は、氷河と共にいる時の瞬の振舞いを、以前以上に緊張して看視することを余儀なくされたのである。
そして、星矢は 幾度も、ひやりとする場面に立ち会うことになったのだった。

たとえば。
聖域からの刺客との戦いで、瞬を庇ったために氷河が地に倒れ伏した時、瞬が 自分を庇って倒れた氷河を微動だにせず――助け起こそうともせず――冷ややかに見おろしていたことがあった。
「瞬。なに、ぼうっとしてんだよ!」
嫌な予感を振り払い、星矢が瞬を怒鳴りつけると、瞬は はっと我にかえり、いかにも仲間の身を案じている様子で 氷河を助け起こそうとした。
「あ……僕、びっくりして……」
弁解するように そう呟く瞬の横顔が、星矢の心に影を落とす。
瞬の真意が、星矢には どうしても読み切れなかった。

瞬は本当に 仲間の負傷に驚いて咄嗟に動けなかっただけなのか。
それとも、今が復讐の好機と思いはしたが、他の仲間たちが近くにいることを思い出し、復讐を思いとどまったのか。
瞬は 実はもう、復讐のことなど全く考えていないのか。
あるいは、確実に氷河を倒すことのできる時を 慎重に見計らっているだけなのか。
もしかしたら、瞬自身、復讐を願う心と 復讐を厭う心の間で 揺れ動いているのではないか――。
星矢には、どうしても瞬の真意が読み切れなかった。
そして、それは、十二宮の戦いが始まってからも変わらなかったのである。

十二宮での瞬の対応も奇妙だった。
双子座の聖闘士の技に惑わされ 異次元に飛ばされかけた氷河をチェーンで救ったと 瞬は言ったが、それは事実なのか。
現に 氷河は仲間たちの許に戻ってきていない。
瞬が、もしかしたら、わざと氷河を助けなかったということも あり得ないことではないのだ。
アテナの聖闘士の敵は、強大な力を持つ12人の黄金聖闘士。
氷河を失うことで味方の戦力が減れば、瞬とて 死と敗北の可能性が高くなる。
まさか瞬が そんな危険なことをするはずがないと思う一方で、瞬にとっては 自分の命より一輝の名誉の方が大切なものなのかもしれないという疑念も湧いてくるのだ。
迷いと混乱のせいで やけになりかけた星矢は、巨蟹宮、獅子宮、処女宮を、自分が どんなふうにして通ってきたのかを ろくに憶えていなかった。

そして、天秤宮――運命の宮。
そこで星矢たちは、半ば死にかけている氷河を見い出した。
「星矢たちは先に行って。氷河は僕一人でも必ず助けるから」
瞬が星矢たちに そう告げた時、瞬は あの目をしていた。
憤っているような、憎んでいるような、悲しんでいるような、微笑んでいるような、あの目、眼差し。
瞬は、その瞳の奥で燃えている炎を、もはや隠そうともしていない。
もし瞬が氷河の命を奪おうとしているのなら、今こそが千載一遇の好機。
そして、だが、アテナの聖闘士たちに残された時間は少ない。
アテナの命は あと数時間。
星矢たちは、ここで足止めを食っているわけにはいかなかった。

「でも、瞬……」
「大丈夫。氷河は きっと僕が助けるから」
そう告げる瞬の瞳にある覚悟の光は、いったい どういう思いが生む輝きなのか。
星矢には わからなかった。
星矢にわかっていることは、ただ一つ。
自分と紫龍は、ここに氷河と瞬を残して 次の宮に進まなければならないのだということ。
氷河と瞬が無人の天秤宮で二人きりになるのは、避けられない運命なのだということのみ。
そして、星矢は その運命に従ったのである。
星矢と紫龍が、瞬の小宇宙が大きく弾けて消えたことを感じたのは、それから まもなくのことだった。






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