夏には まだ間があるのに、もう露草の花が咲いている。 その鮮やかな青色に目を奪われて、瞬は城戸邸の庭のスズカケノキの木立ちの中に分け入っていったのである。 僅かな木漏れ日を受けて 懸命に咲く、誰もが雑草と認識している花。 だが 瞬は、どんな宝石より美しい青色をした その花が大好きだったから。 露草の花の青色は、もしかしたら 瞬を そこに導くための道しるべだったのかもしれない。 青い道しるべが途切れたところで、瞬は、この城戸邸で ただ一人、青い色の瞳を持つ仲間の姿を見付けたのだった。 「氷河……?」 氷河は、城戸邸に集められた子供たちの中では 際だって無口な子供だった。 2、3日くらいなら、平気で無言でい続ける。 氷河が この城戸邸に やってきた頃は、氷河は日本語を喋れないのだと、皆が 本気で信じていたほどだった。 そうではないことを皆が知ることになったのは、彼が城戸邸に連れてこられて1週間ほどが経った ある日の午後。 何事にも無反応な氷河に苛立ったらしい辰巳が、氷河の母親のことを侮辱した時。 可愛げのない息子のために命を落とした馬鹿な母親――亡き母を そんなふうに貶められた氷河は、途端に眉を吊り上げて、辰巳に飛びかかっていったのである。 『マーマは馬鹿じゃない! 訂正しろ!』と、日本語で怒鳴りながら。 これまで 何度 話しかけても、頷くことと 首を横に振ることしかしなかった氷河の剣幕、まくしたてる言葉(主に辰巳の不心得への罵倒)に、瞬は あっけにとられてしまったのだった。 氷河を ずっと遠巻きに眺めていた子供たちは、『あの辰巳に、怯むことなく掴みかかっていくなんて、すごい』と 氷河を大絶賛し、その日以降、彼を仲間として承認することになった。 瞬も もちろん、『あの辰巳に、怯むことなく掴みかかっていくなんて、すごい』という皆の評価には大いに同感したが、瞬は それ以上に、氷河を羨ましく思ったのである。 母のために、自分より はるかに大きな体の大人にも臆することなく挑みかかっていく氷河。 瞬は、そんなにも お母さんを好きな氷河が羨ましかった。 瞬は、母親との思い出を 持っていないようなものだったから。 ともあれ、氷河は、無口な時は無口だが、決して 大人しい子供ではない。 いつも きつい目をしていて、全身に ぴりぴりした緊張感を漂わせ、自分の意見は はっきりと主張し、その意見が容れられなければ、腕力に訴えることもする、かなりの きかん気。 ただ 彼は、力に訴えてまで主張したいことが あまりないだけなのだ。 瞬の認識はそうだった。 だが、今、露草の道しるべの先で見付けた氷河は、きかん気な子供という印象を どこかに脱ぎ捨ててしまったような様子をしていた。 スズカケノキの幹に背をもたせかけ、下草の上に両足を投げ出して、ぼんやりと寂しそうに、瞬が辿ってきた露草の花を視界に映している。 こんなふうに 覇気も緊張感も感じられない氷河を見るのは、瞬は これが初めてだった。 「氷河、どうしたの」 氷河の横に両膝をつき、そのまま その場に座り込んで、瞬は彼に尋ねた。 氷河が、見られたくないところを見られてしまったとでもいうように 気まずげに、眉根を寄せる。 おそらく それが瞬以外の誰かだったなら、氷河は口を引き結んだまま、何も語らなかっただろう。 それが、どんな姿を見られても“泣き虫”“弱虫”と思われることのない瞬だから、氷河は口をきく気になったに違いない。 瞬が 人の弱みを見て増上慢になるようなことをしない子供だということを知っていたから、氷河は瞬に 本当のことを語ってくれたのだ。 「マーマに会いたい」 と。 「え……」 でも……と言いかけて、瞬は 続く言葉を言えなくなってしまったのである。 自分が母に二度と会うことはできないという現実を、氷河は知っているのだ。 知らないはずがない。 知らなかったら、氷河は、何を犠牲にしても、どんなことをしても、彼の母に会うための行動を起こしていたはず。 母に二度と会えないことを知っていて、それでも会いたい気持ちを抑えられず、氷河は こんなところに隠れて、涙も流さず泣いていたのだ。 そんな氷河が切なくて――瞬の瞳には涙が盛り上がってきてしまったのである。 「そうだよね。氷河のマーマは綺麗で優しくて、氷河のことが大好きだったんだよね……」 もしかしたら、それは言わずにいた方がいい言葉だったのかもしれない。 そう言われた途端、泣くまいとして 懸命に歯を食いしばった氷河を見て、瞬は そう思った。 氷河は耐えているのに、耐えることのできない自分が情けない。 そう思うのに、瞬は涙を耐え抜くことができなかった。 瞳から、ぽろぽろと涙が零れ落ちる。 せめて泣き声は洩らさずにいなければならない。 瞬の そんな決意を哀れんだのか、風が瞬の頬の涙を 少しずつ どこかに運んでいってくれた。 それから しばらく――午後のトレーニング開始のチャイムが鳴るまで――木漏れ日の中で 懸命に咲く小さな青い花たちを、二人は 何も言わずに見詰めていたのだった。 |