「沙織オジョーサマが、こっちに来るぞ! おい、瞬。おまえ、本気でやるのかよ?」
「やる」
心配顔の星矢に問われて、瞬は唇を きつく引き結んだ。
音楽室でピアノのレッスンを終えた沙織オジョーサマが、こちらに向かって廊下を歩いてくる。
瞬の心臓は早鐘を打ち――もとい、和太鼓の乱れ打ち状態、足は がくがく震えて、立っているのがやっと。
嘘をつくことが これほど恐ろしく、これほど心身に苦痛をもたらすことだとは。
この恐怖、この苦痛、この緊張に耐えて 嘘をつける人は、鍛え抜かれた心と身体の持ち主であるに違いない――と、今 瞬は確信していた。

それでも。
氷河のため、氷河に寂しい目をさせないため。
懸命に自分にそう言いきかせ、逃げ出したい自分を鼓舞して、瞬は、廊下の曲がり角から 沙織オジョーサマの方に向かって駆け出したのである。
そして、沙織オジョーサマの前で停止して、彼女の足を止めた。
「さ……沙織さんっ!」
「廊下は走らないで。何なの、いったい。あなた、確か……」
沙織オジョーサマは、城戸邸に集められた子供たちの名前を いちいち覚えていないらしかった。
自分の目の前で、身体を小刻みに震わせ 顔を伏せている瞬の様子を怪しみ、その眉をひそめる。
孤児の分際で、この家の主人格の行く手を遮るとは いったい何事なのかと言わんばかりの目で、彼女は瞬を見おろしてきた。

「ぼ……僕、僕、あの……」
恐怖と緊張で 身体中の血液が顔に集まり、瞬の顔は真っ赤、恐くて舌はまわらず、用意してきた嘘の台詞も思い出せない。
「何か用なの」
あと たった一度 瞬きをしたら 涙が零れ落ちそう、膝が震えて 立っていることも困難。
だが、瞬は、それを言わなければならなかった。
氷河のため――氷河の笑顔のために。

「ぼ……僕は、さ……沙織お嬢さんのことが……」
「え?」
「あの……沙織お嬢さんのことが、僕、あ……あの……あの……き……嫌いですっ」
「は……?」
これが限界。
ともあれ、言うべきことは 何とか言い終えた。
瞬は それ以上はもう、1秒たりとも その場に留まることができず、脱兎のごとく、廊下の角で首尾を見守ってくれている星矢たちのところに逃げ込んだのである。

一人、長い廊下の中央に残された沙織オジョーサマは、しばらく その場にぽかんと突っ立っていたのだが、すぐに機嫌がよくなって、軽い足取りで自室に戻っていった――らしい。
瞬自身は、恐くて沙織オジョーサマの反応を確かめることはできなかったのだが、紫龍が そう教えてくれた。
「あ……」
つまり、沙織オジョーサマは、自分の嘘に傷付かなかったのだ。
ほっと 安堵の胸を撫で下ろした瞬の中に、ゆっくりと達成感が広がっていく。
瞬は笑顔になって――少し 得意な気持ちで、改めて仲間たちに 自分の成し遂げたことの報告をしたのである。
「見てくれた? 僕、嘘つけたよ!」
しかも、おそらく沙織オジョーサマの心を傷付けることなく。
瞬には それは思っていた以上の成果だった。
紫龍が、そんな瞬に気の毒そうな目を向けてくる。

「しかし、おまえは 沙織お嬢さんを騙すことはできなかったようだぞ」
「え……?」
瞬が訝って紫龍の顔を見上げると、そこにあったのは、複雑怪奇を極めた紫龍の顔。
「どう見ても、あれは、自分が人に嫌われていると思った人間の反応ではなかった」
「ど……どういうこと?」
見立ては、星矢も紫龍と同じらしく星矢もまた紫龍の隣りで、きまり悪そうに 右手の人差し指で かりかりと鼻の頭を掻いている。

「まあなー。俺だって、瞬に、目の前で真っ赤になって もじもじされてさ、あげく 嫌いだって言われたら、逆に自分に気があるんじゃないかって思っちまうもんな」
「え……あの……?」
「つまり、沙織お嬢さんは、おまえの『嫌い』を『好き』という意味にとったんだ。緊張して言い間違えたか、恥ずかしくて本当のことを言えなかったか。そのどちらかだと思ったんだろう」
「そんな……」
そんなことがあっていいものだろうか。
それこそ決死の覚悟で ついた嘘が、全くの無意味無駄、いわゆるノーカウント、完全な徒労に終わってしまったなどということが。
束の間のものにすぎなかったとはいえ、試練を乗り越えた達成感が 大きかっただけに、瞬の失望は深く激しいものだった。

「そんな……。僕、嘘をつかなきゃならないの。嘘をついて、人を騙さなきゃならないのに……!」
瞬の瞳に涙がにじみ、その涙は またしても星矢を慌てさせた。
「泣くな、泣くな、泣くなっ! あー……んじゃ、んじゃさ。えーと、そうだ。今度は、一輝に、『ボクは、ニーサンなんか、頼りにしてマセン』って言ってみるのはどうだ? 一輝なら、恐いったって、沙織オジョーサマほどじゃないだろ?」
「僕、兄さんのこと、すごく頼りにしてるよ! 兄さんがいないと、僕、生きてられない……!」
「そりゃ そうだろうけど、でも、とにかく、おまえは誰かに嘘をつかなきゃならないんだろ?」
「あ……」

それはもちろん、そうである。
星矢の提案が あまりに真実から かけ離れたものだったせいで混乱し、つい反駁に及んでしまったが、瞬は 今、誰かに嘘をつき、その人を騙さなければならなかった。
肝心のことを思い出し、だが 瞬は ためらわずにはいられなかったのである。
“嘘をつく”とは、何という試練、何という苦行だろう。
もし一生 嘘をつかずに済むのなら、自分は聖闘士になるための特訓など、すべてを笑顔で こなしてみせるとさえ、瞬は思った。

だが、瞬のその願いは叶わない。
瞬は、何が何でも、是が非でも、誰かに嘘をつき、その人を騙さなければならないのだ。
その試練を乗り越えなければ、氷河は いつまでも寂しいまま、会うことの叶わぬマーマのことを思って悲しみ続けるに違いない。
瞬はどうしても――どうしても、嘘をついて 誰かを騙さなければならなかった。
だから――だから、瞬は身を切られる思いで 兄の許に行き、泣きたい気持ちで、兄に、
「ぼ……僕、兄さんのこと、頼りにしてません」
と、告げたのである。

いつも兄に頼りきりの弟に そんなことを言われ、一輝は 少なからず驚いたようだった。
しかし、彼はすぐに嬉しそうな笑顔になり、瞬に、
「よく言った。さすがは俺の弟だ」
と応じてきた。
思いがけない兄の答えに、瞬は虚を衝かれた顔になり、そして 自分がまた失敗してしまったことを知ったのである。
兄は それを、いつも兄を頼りにしている情けない弟の自立を目指す決意表明だと思ったのだ――ということに気付いて。
兄は、弟が兄を頼りにしていることを知っており、その事実を微塵も疑っていないのだ。

「ふぇ……」
嘘一つ 満足に言えない自分が情けなくて。
氷河を寂しくなくしてやることのできない自分の無力が悲しくて。
瞬は ついに大声を上げ、兄の前で 派手に泣き出してしまったのである。






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