瞬が自分のために何をしようとしたのか。
時に愚かにさえ思えるほど 自分の感情や考えに正直で素直な瞬。
だからこそ、その優しさを 疑いなく信じることのできる瞬。
その瞬が、人に嘘をついてまで、心弱い仲間の願いを叶えようとした――。
自分が そうしてくれと頼んだわけではないのだから、瞬の兄の憤りは理不尽だと思うが、瞬の境遇に考えを及ばせることなく 不用意に瞬に あんなことを言ってしまった自分自身には 腹が立つ。
結局 自分は、瞬の優しさに 無意識のうちに甘えていたのだと、氷河は思った。
自分より年下の、自分より弱い、自分より泣き虫の瞬を、そんなつもりはなかったのだが 見下していたから、瞬の心や瞬の境遇を(おもんぱか)ることを、自分はしなかったのだ――と。

弱く愚かだったのは、いったいどちらだったのか。
氷河は 心底から、自身の軽率を悔いたのである。
そして、嘘をついて人を騙すなどということを、あの優しく清らかな瞬には絶対にさせられないと、何としても 瞬を止めなければならないと、氷河は思った。
だから、氷河は瞬を探し、彼が瞬を見付けたのは、ほぼ日が暮れてしまった城戸邸の裏庭。
瞬は一人ではなかった。
城戸邸では一度も見掛けたことのない、奇妙な出で立ちをした、銀色の男と一緒にいた。

星矢が言っていたように、瞬は 仲間の気持ちを思うあまり、こぎつね座の神なるものを 自分の夢の中で作り出したのだと、氷河は思っていた。
だから、どう見ても普通の人間とは思えない銀色の男の姿に ぎょっとして、氷河は 反射的にエニシダの木の陰に身を潜ませたのである。
銀色の男は、瞬の倍近く 背が高く、不愉快なほど傲慢な様子で、高みから瞬を見おろし、そして 罵倒していた。

「丸1日かけて、嘘の一つも言えないとは無能もいいところだ。おまえには、人並みの知恵も知能もないのか!」
「で……でも、嘘なんて……」
瞬が泣きそうな目で、銀色の神を見上げる。
今 ここで彼に口答えをすると、愚かな仲間の願いを叶えてやることができないと思ったのか、瞬は 苦しげに その顔を伏せた。
「う……嘘はついたんです。だ……騙せなかっただけで……」
「それが無能だと言っているんだ! 何が地上で最も清らかな魂の持ち主だ! ただの馬鹿じゃないか! ハーデス様は、こんな うすのろの何がよくて――」

忌々しげな口調で、銀色の男は、氷河には――もしかしたら瞬にも――訳のわからないことを がなり立て、瞬は そんな男の前で 身体を小さくし、ひたすら震えているだけ。
神だか何だか知らないが、瞬を苦しめ傷付けるなら、それは悪者に決まっている。
氷河は すぐにエニシダの木の陰から飛び出して、銀色の男に殴りかかっていこうとしたのである。
氷河が そうすることができなくなったのは、偉そうな悪党の銀色の男が 瞬にとんでもないことを言い出したからだった。
銀色の男は、言うに事欠いて、
「まあ、いい。俺は寛大な上に親切な神だからな。おまえが嘘をつく回数を、1回だけに減らしてやろうじゃないか。おまえは、その氷河とやらに、大嫌いだと言う。それができたら、俺は きつねの窓を おまえに作ってやろう。それで どうだ?」
という妥協案(?)を瞬に示してきたのだ。
それまで 銀色の男の前で 顔を伏せ 身体を縮こまらせていた瞬が、弾かれたように顔を上げる。

「そんな……! ぼ……僕、氷河のことが大好きだよ!」
「だから、嫌いと言うんだ。好きな者を好きと言っても、嘘にならないじゃないか」
「どうして 嘘をつかなきゃならないの。そんな嘘をついて、何になるの」
「何になる? 皆の得になるだろう。おまえが清らかでなくなれば、俺は気分がよくなるし、おまえは きつねの窓を手に入れることができる。それは おまえが望んだことだ」
「それは……」
「氷河とやらを、母親に会わせてやりたいんだろう?」
銀色の男が、下卑た口調で、瞬の優しい気持ちに つけ込む。
『そんな男の言うことは 突っぱねろ!』と、氷河は胸の中で瞬に叫んだのである。
『氷河に 嫌いだと言うことはできない。氷河の母親のことなんか知らない』と言って、意地の悪い男の言うことなど無視しろと。
だが――。

瞬は氷河の願いを聞いてくれなかった。
瞬は その瞳から ぽろぽろと幾つも涙の粒を零しながら、
「僕、氷河に 嫌いだって言う。だから、必ず氷河を 氷河のマーマに会わせてあげてね」
と、銀色の男に頷いてしまったのだ。
「無論だ」
瞬の答えを聞いた銀色の男は 満足げに笑い、瞬の答えを聞いた氷河は 呆然とした。

瞬の瞳から零れ落ちる綺麗な涙。
瞬自身には何の得もない、その取り引き。
だというのに、瞬は いったい なぜ、何のために、それほどの犠牲を払うのだろう。
瞬の決意は、氷河には理解できないものだった。
氷河にわかることは、ただ一つ。
瞬は放っておくと、人のために自分の命をさえ差し出しかねない、恐ろしいほど強く優しい人間だということだけだった。






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