「そう言って、マーマは氷の海に沈んでいったんだ」
「……」
完全に真顔で告げる氷河の前で、彼の仲間たちは声を失っていた。
「そう言って、マーマは氷の海に沈んでいった……って……」
それは、生と死の狭間という極限状態で見た夢の話なのか、悲鳴のような声をあげて吹きすさぶ風の音が、氷河の耳には そう聞こえたという話なのか。
あるいは、氷河の作り話なのか。
沈みゆく船の甲板にいた母の声が、もし本当に 氷河の耳に本当に届いたのだとしても、それが氷河の母の作り話だったということもあり得る。

あらゆる可能性を、星矢は考えた。
考えて、だが、彼は その考えを言葉にして氷河に伝えることはしなかった。
たとえば それが幻聴だったのだとしても、その幻聴を 幼い氷河が 母の最期の言葉と信じ 生きる力を得たというのなら、軽々にそれを否定するわけにはいかない。
そう、星矢は思ったのである。
だから彼は、真顔の氷河の前で、ただ絶句することだけをした。
紫龍も 瞬も、それは星矢と大同小異だったに違いない。

「そして、俺は、日本に連れてこられて、瞬に会ったんだ」
それだけ聞けば、その先は聞かなくてもわかる。
“大人の都合”という運命に導かれて やってきた見知らぬ国で、氷河は、彼の母の予言通りの人に出会い、恋をした。
氷河の母が予言した氷河の運命の恋人は瞬で、母の予言通りに その恋は瞬に受け入れられ、自分は幸福になれると、氷河は信じているのだ。
あるいは、信じている振りをしている。

否、氷河が“信じている振りをしている”ということは考えにくかった。
そもそも氷河は、“振りをする”などという面倒なことをする男ではない。
そして、そんな手の込んだ(?)作り話を作る男でもない。
かといって、常識では考えられない こんな話を真面目に語るほど 夢見がちな男でもなく――。
してみると、考えられるのは、それが完全な幻聴だったパターンと、実際に氷河の母の声は 聞こえていたが、それが氷河の母の作り話だったパターンのいずれか――ということになる。

ただ一人の肉親を失い 天涯孤独になった人間が、やがて誰かに恋をして、孤独な人間でなくなる。
それは、さほど独創性のある物語ではないし、実際に そういう経験をした人間は、この地上に相当数いるのだろう。
乱暴な言い方をすれば、大抵の孤児の人生は そういうものになるに違いない。
氷河の母は、(それが彼女の作り話だったとして)氷河の恋を 特別な恋だと強調していたようだが、誰にとっても、自分の恋は特別なものであるに決まっている。
つまり、“特別な恋”というものは、世の中に いくらでも転がっている“ありふれた恋”でもあるのだ。
ゆえに、この場合、問題なのは、それが母の予言なのだから、自分の思いは瞬に受け入れてもらえるのだと氷河が信じていること。
それこそが、大問題だった。

そんなことがあるわけがないではないか。
神でもない ただの人間が、ある人間(自分の息子)の人生がどんなものになるのかを 本当に知っていた――息子の未来が本当に見えていた――などということが。
そんなことは あり得ない。
あり得ないことなのだと、やはり星矢は氷河に告げるしかなかった。

「氷河。あのさ。それってさ、それがマーマの予言だから、運命で決まってることだから、自分の望みを叶えろって、瞬に 強要してるようなもんだぞ。常識で考えろよ。んなことあるわけないだろ。きっと それは幻聴だったんだ。でなかったら、おまえのマーマが、おまえのために作った作り話だ。普通の人間は、未来を見通す力なんて持ってねーの。予言なんて できるわけない。瞬。真に受けんなよ。ほだされるなよ!」
星矢が瞬に釘を刺したのは、これほど馬鹿げた話を真顔で語る氷河を見詰める瞬の眼差しが、氷河のそれ以上に真面目で真剣なものに見えたから。
呆れているようにも見えなければ、狂人を見る目もしていなかったから、だった。

まさか 瞬が、予言などというものを本気で信じることがあるとは思えなかったが、そんな予言を真顔で語る氷河に、瞬が同情しないとは言い切れない。
そんな夢を見るほど、そんな幻聴を聞いてしまうほど、母を失った氷河には すがるものがなかったのだと 氷河に同情し、その望みを叶えてやらなければならないと思うくらいのことは、瞬は 平気で やりかねないのだ。
星矢に釘を刺された瞬が、困惑し、何かを 迷っているように瞼を伏せる。
氷河の夢物語を 夢物語にすぎないと断じてしまわない瞬の態度が、星矢を 途轍もなく不安にした。






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