「瞬……! 瞬、何 ぼんやりしてんだよ。氷河の夢の話なんか、真に受けんなよ? おまえ、ちょっと強く出られると、すぐ 人の言うこと きいちまうんだから。ここは、しっかり自分の意見を主張するとこだぞ。でないと、おまえは、氷河の……氷河の、その、何だ、恋人ってのに されちまうんだ。そんなことになったら、おまえだって困るだろ。そもそも、おまえは男で、氷河も男なんだ! 運命の恋も何もあるかよ!」 星矢の声で、瞬は はっと我にかえった。 そして、ここが城戸邸のラウンジであること、季節は初夏であること、時刻は星の見える夜ではなく、明るく暖かな昼下がりであること、自分が仲間たちの前で、氷河に『おまえは俺の運命の人だ』と言われたばかりであること、そして、自分が あの“母なる人”に出会ったのは、今から何年も前の夜だったこと――を思い出す。 夢だったのか、本当にあったことだったのか、今でもわからない。 そして、今でも忘れられない。 “母なる人”とのやりとり、彼女が告げた言葉――。 初めて氷河を見た時、瞬は、それが彼女の言っていた“あの子”なのだと、すぐに わかった。 これまで見たことがないくらい 眩しい色の髪と、空色の瞳。 氷河は、彼女が言っていた通りの姿をしていた。 彼女が言っていた通り、ぶっきらぼうで優しくて――何もかもが、彼女の言っていた通りだった。 しかし、瞬は 彼女の言っていた“道しるべになる人”には会えなかったので(会ったことに気付いていなかったので)、彼女の言葉を信じきることができなかったのである。 今ではもう、わかっていた。 あの時、彼女が告げた もう一人の運命の人。 それは、少女の姿をした女神アテナだったのだと。 “母なる人”の言葉は すべて実現しているのだ――。 「瞬! 聞いてんのか? 俺の有難い忠告が聞こえてるか !? 」 言葉ほどには明瞭ではなく 幻影のようだった彼女の姿を、瞬は ずっと心の中で聖母マリアに重ねていた。 その姿、その言葉。 夢だったのか、本当にあったことだったのかは、今でも わからない。 だが、今 瞬に焦れているような大声で 有難い忠告を垂れている星矢は、紛れもない現実だった。 「あ……うん。ちゃんと聞いてる――聞こえてる。でも、あの、僕、別に氷河のこと嫌いなわけじゃないし……好きだし……」 そんなことは、星矢も承知していただろう。 彼が今 問題視しているのは、しかし、そんなことではない。 「『嫌いじゃないから、これまで通り、仲間でいる』でいいだろ。だっていうのに、氷河は、それとは全然違うことを、おまえに求めてるんだよ!」 「違うこと……なのかな」 問い返したのは、星矢の提案を受け入れてしまうことに迷いがあるから。 星矢は、だが、瞬の そんな迷いに気付かない。 彼は、自分が提示した結論に自信満々だった。 「違うだろ。氷河は、『いつまでも一緒に世界の平和のために戦おう』って 言ってるわけじゃないんだ。それだけじゃないんだ。そうだろ?」 星矢が、氷河に確認を入れる。 悪びれた様子もなく、そして、ためらいもなく、氷河は星矢に頷いた。 「それも求めているが、それだけじゃない」 「ほら見ろ。氷河は、おまえに ろくでもないことを求めてんだよ!」 我が意を得たりとばかりの得意顔で 顎をしゃくった星矢に、瞬は再度 問い返した。 「ろくでもないことって、何」 「え? それは……それは、つまり、だから……お手々つないで、おまえと一緒に外を歩きたいとかさ……」 まさか そんなことを尋ねられるとは思っていなかったのだろう。 星矢の口調が 妙に歯切れの悪いものになる。 思うところを単刀直入に言ってしまえなかった星矢の言は、核心から離れすぎていた。 決して間違ってはいないのだが――それは確かに“氷河が求めている ろくでもないこと”の一側面ではあるのだが――それでは星矢の懸念(?)は、瞬には到底 伝わらない。 そんな星矢を見兼ねたらしい紫龍が、脇から助け舟を出してきたのだが、 「氷河は おそらく、おまえと情を交わすことを求めていると思うぞ」 その助け舟は、星矢には あまり喜ばれなかった。 「それって、“お手々つないで”よりもっと抽象的っていうか、婉曲的っていうか、具体的じゃなさすぎて どうとでもとれるっていうか、いかにも日本語的表現で インパクトに欠けるっていうか――」 最終的に、星矢の言わんとするところを 最も明瞭な言葉で瞬に告げたのは、星矢の言う“ろくでもないこと”の主体となる男。つまり、氷河だった。 「瞬。俺は、おまえと寝たいと思っているぞ」 もちろん、それは、紫龍の助け舟以上に、星矢の気に入るものではなかったのである。 「氷河! この恥知らず! もっと抽象的に婉曲的に言えよ! 瞬は、おまえと違ってキヨラカなんだから!」 キヨラカな瞬向けの言い回しを模索する自分の努力を台無しにしてくれた氷河を、星矢が大声で怒鳴りつける。 しかし、星矢は すぐに その憤りを静めた。 「まあ、でも、おまえが はっきり言ってくれて、こっちは助かったけどさ」 落ち着いて考えてみれば、これは、氷河が自ら墓穴を掘ってくれたも同然の状況。 星矢にとっては 極めて都合のいい展開だったのである。 星矢は、清らかな友の方に向き直り、今度は きっぱりした口調で瞬に命じた。 「瞬、ちゃんと、そんなことできないって断れよ! なにがマーマの予言だよ。きっちりと オコトワリしてやれ!」 「……」 星矢に そう言われた瞬は、それまで無意識にのうちに氷河から逸らしていた視線を、その上に移動させた。 氷河は、じっと瞬を見詰めている。 彼は ずっと そうしていたのだろう。 そんな氷河から、瞬は視線を逸らせなくなった。 瞬の中に、あの声が甦ってくる――彼女の声が聞こえてくる。 押しつけがましくなく優しい、だが、強く熱のこもった“母”の声――。 瞬ちゃん。 駄目かしら? こんな身勝手な母親の願いは きいてもらえないかしら? 私は、あの子に幸せになってもらいたいのよ――。 それほどまでに、“母”というものは、我が子を愛するものなのだろうか。 これほどまでに“母”に愛されている人は どんな人なのだろう。 その人が羨ましい――。 幼い胸が大きく強く波打ち、いつまでも鎮まらなかったことを、瞬は憶えてた。 私は、あの子に幸せになってもらいたいのよ――。 瞬の答えは決まっていた。 もう何年も前、氷河に出会う以前、まだ幼かった あの日に決まっていたのだ。 氷河の空色の瞳――母なる人と同じ色の瞳――を見上げ、見詰め、瞬が頷く。 「はい」 星矢が、一瞬 沈黙してしまったのは、彼が瞬の答えの意味を量りかねたからだったろう。 「その『はい』ってのは、どういう意味だよ?」 すぐに気を取り直して尋ねてきた星矢を見ずに――氷河の瞳を見詰めたままで、瞬は氷河に告げた。 「僕、氷河のマーマに約束したの。氷河を必ず 幸せにするって。だから、心配しないでって」 「瞬……?」 おまえは 突然、何を言い出したんだ。 星矢が そう問いたげな顔になったことに、もちろん 瞬は気付いていなかった。 見ていなかったのだから、当然だが。 「僕は、マーマの代わりに、氷河を幸せにするって、氷河を幸せにするためになら何でもするって、氷河のマーマに約束したの。あの約束を破るわけにはいかない」 あの人の願いを叶えずにいることなど できない。 氷河は、あの人に愛されている人。 だから、氷河は幸せにならなければならないのだ。 あの人を悲しませないために。 瞬の答えは決まっていた。 「幸せにしてくれ。幸せにする」 氷河が、空色の瞳を輝かせて 静かに微笑んだのは、彼が 彼の母の予言を信じていたから――ではなかったのかもしれない。 そうではなく、母の予言が現実のものになったから――信じていたいと願うことを、これからも信じ続けていられることを喜んで、氷河は微笑したのだ。 「うん」 そんな氷河の様子を見られることが、瞬をも幸せで嬉しい気持ちにした。 そして、少し――否、かなり――胸が どきどきする。 あれほど強く深く熱い母の愛を知っている人が、その恋人を どんなふうに愛するのか、瞬には 想像もできなかったから。 恐くもあったが、逃げたくはない――知りたい――我と我が身で確かめたい。 瞬の答えは 最初から――母なる人に出会った時から 決まっていたのだ。 |