俺が意識を失っていたのは、10数分程度だったらしい。 目覚めたのは、瞬の寝台の上。 最初に俺の視界に映ったのは、俺の瞬の澄んだ瞳と、地上のどんな花より可憐な瞬の面差し。 「氷河、大丈夫……? ごめんなさい。僕、ああするしかなくて……」 そして、瞬の声は 少女のそれ。 なのに――なのに 瞬は、あの不快男の実の弟で、正真正銘、間違いなく男子なのだそうだった。 瞬と 瞬の兄―― 一輝という名だそうだ――の話によると。 俺が瞬と出会った あの教会から瞬が突然 別の施設に移されたのは、そこに 生き別れになっていた瞬の兄がいることが わかったからで、二人は その後も幾つもの施設を転々とすることになったらしい。 瞬は何も言わなかったが、兄弟が一つの施設に長くいられなかったのは、どう考えても 瞬の兄の可愛げのなさのせいだ。 やがて 施設を出た二人は、テッサリアの小さな村で つましく暮らしていたんだが、半年ほど前に、どこからともなく 兄弟の前にハーデスが現われ、瞬を さらっていこうとした。 それを阻止し ハーデスを追い払ったのは、ハーデス同様、どこからともなく 兄弟の前に現れたアテナ。 神話の時代から聖戦を繰り返してきた、力の拮抗した宿敵同士といっても、地上世界ではアテナの方に分があったということか。 兄弟の前に現れた2柱の神は、どちらも実体ではなかったらしい。 ハーデスを退けたアテナは、兄弟を 自分の聖闘士になるべき力を持った二人だと言い、聖域で保護したいと申し出た。 ――のは よかったんだが、なにしろ瞬は ナルシストのハーデスが目をつけるほどの(俺には まだ信じられないんだが)美少年。 美少女にしか見えない美少年の姿を見て、アテナは、その時が初対面だった瞬の兄に、俺たちには お馴染みのあの質問をした。 つまり、 「まあ、なんて可愛らしい。私とどちらが可愛らしいと思う?」 という質問を。 うまく はぐらかすか、せめて 何も答えずにいればよかったのに、瞬の兄は、 「瞬の方が可愛いに決まっているだろう」 と、正直に答えてしまったんだそうだ。 アテナは、 「正直なお兄さんだこと。とても気に入ったわ。ぜひとも、聖域にいらっしゃい。もちろん、私より可愛らしい弟さんも一緒に」 にこやかに そう言って、胡乱な目で――瞬の兄には そう見えたらしい――瞬を睨みつけた――瞬の兄の目には そう映ったらしい。 で、瞬の兄は、アテナの逸話――自分の髪はアテナより美しいと豪語して アテナに化け物に変えられてしまったメドューサの話や、アテナと機織りの腕を競って 蜘蛛にさせられてしまったアラクネの話等――を思い出し、彼女の言に従えば 瞬がひどい目に会うと確信するに至った――のだそうだった。 「何が知恵と戦いの女神だ! アテナなんて、ハーデス以上に信用ならない。だから、ギリシャ正教の聖地なら、神が瞬を守ってくれるだろうと考えて、俺は 瞬を連れて この国に渡ったんだ。ところが、どうだ。禁欲と祈りの国なんて、立派なのは お題目ばかり。俺たちが この国に来て1週間も経たないうちに、瞬の姿に血迷った男共が、入れ代わり立ち代わり 瞬に夜這いを仕掛けてくるようになって、俺は おちおち寝てもいられなくなった。瞬は こんな部屋に隠れていなければならないし、この国は 一度 入ってしまったら 外に出ることの許されない国で、俺たちは にっちもさっちもいかなくなってしまったんだ!」 「それは、しかし……」 貴様の憤りは わかるし、俺も貴様と全く同じ憤りを覚えるが、それは どう考えても 貴様の判断ミスだ。 女人禁制の国に 瞬を連れて入り込むなんて、自ら危地に飛び込むも同然、飛んで火に入る夏の虫並みの愚行だろう。 なぜ この国に渡る前に、貴様は その可能性に考え及ばなかったんだ。 それとも、実兄だと 何も感じないものなのか? 瞬の この清楚可憐な姿を見ても? 俺なんか、実は男だと言われても――男だと わかっても、俺は――。 いかん。 俺は何を考えているんだ。 今は、そんなことより、瞬の身の安全を確保することこそが最優先課題。 ――なんだが、それにしても、この事態。 「つまり、ここに瞬を隠したのはハーデスではなく 人間のおまえで、その理由はアテナのいじめから瞬を守るため……だったというのか?」 ったく、なんてことだ。 アテナは自分のドジの尻拭いを、俺にさせたんだ。 黄金聖闘士を派遣させられないわけだ。 本心では どう思っているのか知らないが、『アテナより美しい人間など、この地上世界にいるはずはございません』なんて、にこりともせずに言ってのける黄金聖闘士たちに、こんな仕事をやらせても面白くも何ともないからな。 だが。 アテナの ふざけた やり口には腹も立つが、瞬がハーデスに狙われているのは事実のようだし、俺は やはりアテナの命令を遂行しないわけにはいかない。 瞬の兄のためではなく、ましてや アテナのためでもなく――他の誰でもない、瞬のために。 「貴様の怒り――いや、貴様の誤解は、俺も当然のことだと思うが、アテナは、あれでも地上の平和を守る守護神で、悪気はない――いや、悪気でいっぱいだが、その悪気は貴様の考えているような悪気ではないんだ」 ええい、くそ。 アテナほど弁護の難しい神はいないぞ、ったく。 アテナ。 聖域に帰ったら、この落とし前は きっちりつけてもらうからな! 「何を美しいと思うのか、それは人それぞれだということも、人間の目と心には、愛しているものの姿こそが最も美しく見えるということも、アテナはちゃんと知っているんだ。何かというと、他人と自分のどちらが美しいかと、人に訊くのは、その質問に答える人間の性格や価値観を見極めるため。それを確認するのに、『私とどっちが綺麗?』が最適な質問だからだ。『正直者だから 大いに気に入った』と言ったアテナの言葉にも、裏の意味はない。おそらく アテナは、貴様を『神への畏敬より肉親重視。力あるものにも恐れを成さず立ち向かう態度には、見るべきものがある』と判断して、聖域に来るよう言ったんだ――」 既に 人となりを知っている俺に アテナが それを訊くのは、人間性確認のためじゃなく、単なる嫌がらせだがな。 ああ、それにしても、なんで俺が、しかも10年 思い続けた初恋の人が男だったという衝撃の事実を知らされて 泣きわめきたい今 この時に、神のくせに 人の悪いアテナの弁護なんか してやらなければならないんだ。 理不尽にも程がある。 不条理も いいところだ。 恨むぞ、アテナ! ――と、俺が天を仰いで(室内だが)、己れの運命の苛酷を嘆こうとした時、瞬の部屋の小窓の向こうに、白く のっぺりした妙なものが見えた。 そして、すぐに見えなくなった。 俺が それを“妙なもの”だと思ったのは、よほどのことがない限り、深夜は自室を出てはならない決まりになっている この国で、それは そこに見えてはならないものだったからだ。 つまり、それは人の顔だったんだ。 室内の様子を窺って、そこに目覚めている人間が三人もいることに驚き、逃げ去った――のか? 「何だ、今のは」 おおよそ察しはついたし、その推察が正鵠を射たものなのかどうか、確かめたくもなかったんだが、確かめないわけにもいかない。 俺は、瞬の兄に尋ねた。 俺の推察は、半分 当たり、半分が外れていた。 「瞬を狙っている修道士の一人だろう。命が惜しくないと見える。……貴様も見ただろう。瞬は不思議な力を持っている。瞬が己が身を守れるよう、神が与えた力なんだろうが――覚醒している時には完全に制御できるんだが、睡眠中には その制御がきかなくなる。へたをすると 瞬は、意識せずに、自分に危害を加えてくる者の息の根を止めかねない。瞬に そんな罪を犯させるわけにはいかないから、俺は 毎晩、瞬に不埒な男が近付くことがないよう 見張っていなければならないんだ。おかげで、俺は気の休まる時がなく、常に寝不足だ」 そう告げる一輝の声は、まさしく 寝不足で苛立っている人間の声。 半分 外れた自分の推察に、俺は一瞬 呆けることになった。 深夜 瞬の部屋の周囲を徘徊している修道士の目的は 俺の推察通りだったんだが、瞬の兄が守っているのが 瞬の身じゃなく、瞬に 邪まな思いを抱いている修道士の命の方だったとは。 瞬の兄の憤りは当然だ。 瞬の身を守るためなら ともかく、なぜ自分が そんな助平男共の身を守るために 寝不足にならなければならないのかと、俺が一輝でも腹が立つ。 「そういうことなら なおさら、貴様と瞬は聖域に来た方がいいと思うぞ。聖域は女人禁制じゃないから、そういう意味で瞬を狙うような男は まず現れないだろう。強い女しかいないから、女相手にだって 艶めいたことを考える男はいない場所だ、聖域は。何より、アテナの目が恐くて、少なくとも、聖域内で そんなふしだらなことをする者はいない。ここを出る手はずは アテナが整えてくれる。アテナより、この国の神の方が 頼り甲斐があるなんて、貴様も もう考えてはいないだろう?」 禁欲男ばかりの国の危険性、そんな国に瞬を置くことの無謀については、一輝も実際に この国に来て、実際に暮らしてみて、嫌になるほど理解していたらしい。 出られるものなら、この国を出たいと願ってもいたのだろう。 瞬も、兄の身――というより、寝不足が続く兄の精神と神経――を心配していたらしく、 「これ以上、この国にいたら、僕より先に 兄さんの方が参ってしまう。この国を出られるなら、氷河の勧めに従おうよ」 と、俺に口添えしてくれた。 最終的に、“アテナを信じるから”ではなく、“この国の神(の信仰者)より、アテナの方が まだましだと思うから”、一輝は聖域行きの決意をしてくれた。 |