2軒目の店に誘ったはいいが、結局 2軒目の店を決めたのもジュネだった。
ジュネは 自分好みの店の開拓を精力的に こなしているらしい。
苦手分野とはいえ、日本在住期間は 彼女より格段に長いのに、ジュネについていくしかない自分を、瞬は少なからず 情けなく思ったのである。

席数20ほどの、小さな落ち着いたバー。
瞬とジュネは、カウンターではなくテーブル席に着いた。
バーにしては、照明は明るめ。
他のテーブル席も ほぼ埋まっているのだが、店内は静かだった。
川のせせらぎ、やわらかな風の音、小鳥のさえずり等のヒーリング音楽が、意識しなければ 流れていることにも気付かぬほどの音量で その空間を満たしている。
サザン・クランベリー・ソーダを頼んでから、自分は なぜ このカクテルが甘く軽いことを知っているのだろうと、瞬は奇妙なことを考えた。
以前 飲んだことがあるから――に決まっているのに。

マイタイのグラスに飾られているオレンジを無造作に指で摘まみ、ジュネが、何かを探るように 瞬の顔を覗き込んでくる。
「今の病院に来て、2ヶ月だね。職場が変わって、疲れてるのかい? 忙しい?」
「いえ。忙しいことは忙しいですけど、お休みはちゃんと取れていますから」
「でも、疲れてるみたいだよ。憂鬱そうな顔してる」
「そんなことはないんです。ただ、最近、何かが足りないような気がして――何か 大切なものを失くしてしまったような気がして……」

足りないものなど あるはずがない。
そもそも、何かを失くしたという記憶自体が、自分にはない。
物も、人も、夢や希望、目的や目標、生き甲斐といった類のものも――何ひとつ、瞬は失った覚えがなかった。
だというのに、この喪失感――否、欠如感。
これはいったい何なのか。
心当たりが全くないことが、かえって瞬を不安にしていた。

「自覚できてないだけで、やっぱり疲れているんだよ。勤務先が変わったせいで 気苦労が増えて、おまけに あたしと知り合ったせいで 面倒事が増えて――増えたものはあっても、失くしたものなんか、瞬にはないだろ」
「ジュネさんが面倒事を運んできたなんてことはありませんよ。ジュネさんと知り合えたことは僥倖だと、僕は思っています」
瞬は、真面目に、きっぱりと、ジュネに告げた。
「ほんとかい? 瞬はあたしを嫌ってない? 好き?」
「もちろんです」
やはり真面目に きっぱりと断言した瞬を見て、ジュネは苦笑した。

「その、子供みたいに色気のない“好き”は どうにかならないのかい。ちっとも喜べない」
「え……」
「ま、いいさ。あんまり考えすぎないことだ。考えすぎて、瞬が鬱になったりしたら大変だ。瞬は真面目すぎるから心配だよ」
「僕が鬱なんて、まさか……。大丈夫ですよ――大丈夫です。仕事には やり甲斐を感じてますし」
「ならいいけどね……」
言葉通りの心配顔。
この人が、姉か母親だったら よかったのに。
ジュネの気遣わしげな表情を見て、瞬は、完全に本気で そう思った。
そうではないことが、とても残念だと。

「あたし、今夜、瞬の部屋に行っちゃ駄目かい?」
優しく美しく残念な人が、ふいに声の調子を変えて、残念なことを瞬に問うてくる。
「え?」
「明日、休みなんだろ」
「ええ」
「あたしもだよ」
「そうなんですか」
「そうなんですか……って……」
ジュネは 大いに不満そうだったが、瞬には 他に答えようがなかったのである。
ジュネは、瞬の姉でも母親でもなかったから。
本当に 残念なことに。

「女の方から露骨に誘いをかけてるっていうのに、そういう態度は いただけないね」
ジュネの訓告に、
「すみません」
素直に謝る。
それが ジュネの癪に障ったらしく――否、もしかしたら、ジュネは、瞬を真面目で素直な人間にしておくことしかできない自分に焦れたのかもしれなかった。
「あたし、そんなに魅力ない?」
半ば 諦めたような口調で、ジュネは自分の身体をまじまじと観察し始めた。

肌の露出は さほどではないが、身体の線が はっきり見てとれるタイトな服。
ジュネの出で立ちは、自分のプロポーションに自信のない女性なら 身に着けることを尻込みするようなものだった。
そんな服を身に着けた身体を軽く背後に反らすようにして、ジュネが尋ねてくる。
「これでも、自分では 結構いけてる方だと思ってるんだけどね」
「ジュネさんは お優しくて、お綺麗です」
「ガサツだけどね」
彼女が姉だったなら どんなにいいか。
いっそ ジュネに 兄の恋人になってもらうのはどうだろう。
そんなことを考えてしまう“好き”。
多分、それはジュネの望む“好き”ではない。

「まあ、いいさ。あたしは、瞬の そういうとこが好きなんだから。今夜は――今夜も、解放してあげるよ」
なぜ彼女が姉ではないのか。
「でもね、清らかなのも、ほどほどにしておくことだよ。あたしでなかったら、怒るか 泣き出すかしてるよ」
そんなことを言いながら、今夜も自分を解放してくれるジュネには、やはり好意を抱かずにいられないし、誘われたなら、また会ってしまうと思う。
彼女といる時間は快いから。
姉のように あれこれ言ってもらえることは嬉しいから。
だが、彼女は“違う”のだ。
何が違うのか、それがわからない自分が、瞬は もどかしかった。


「おやすみなさい。気をつけて」
「次は和食にしよう。お喋り雀たちの話を聞いてるの、あたしは楽しかったんだけど、瞬が 申し訳なさそうな顔になるから、今度は個室がいいね。おやすみ。気をつけて、お帰り」
「……はい」
ジュネをタクシーに乗せ、見送り、自身も自宅に帰る。
そうして、一人で眠ることを寂しいと感じるのも事実なのだ。
仕事は やり甲斐があるし、努力と成果に見合う評価も得ている。
S国際病院の院長は、『本気で、こちらに移ってきてくれないか』とまで言ってくれていた。
ジュネは優しく、美しい。

それでも、彼女は違う。
何かが足りない。
自分が失ったものは何なのか――あるいは、誰なのか。
それが わからないことが、悲しく、苦しい。
そして、寂しい。
瞬は、自分を寂しい人間だと感じずにいられなかった。






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