「こんばんは、氷河。調子はいかが」 『たった今、夜更けのバーに不釣合いな少女趣味な服を着た客が登場したせいで悪くなった』 と 氷河が言わなかったのは、フレアが店内に入ってくる以前から、氷河は調子が悪かったから――だった。 「勝手が悪い。客層も違うし」 氷河が押上のバーから六本木の店に、期間限定ヘルプで移ってきて2ヶ月が経つ。 ヘルプといっても、店をきりもりするのは氷河一人、店内のことは自分の好きなようにできるのだが、それだけで完結しないのが客商売というものである。 押上も 某電波塔の開業によって 徐々に下町情緒が失われつつあるのだが、それでも、押上と六本木では 街の持つ空気が違い過ぎた。 六本木も、某高層オフィスビルのオープンで 以前の“危険な街”のイメージは薄れてきているのだが、『東京で危険な街といえば、どこか』と問われれば、『六本木』と答える人間は、未だに相当数いるだろう。 外国人が多い。 一目で堅気ではないとわかる人間も多い。 本当に危険な人間は、氷河が自分より危険な人間だということを敏感に感じ取って、この店のバーテンダーの気分を害さないように振舞ってくれるのだが、根拠もなく いきがった三下は そうはいかない。 そして、そんな三下以上に 氷河が辟易しているのは、フレンドリーに振舞うことを美徳と考えているらしい一部の外国人の 馴れ馴れしい 乗りの軽さだった。 悪意なく不快な人間というものは 手に負えない。 フレアも外国人といえば外国人で、悪意のない馴れ馴れしさも 他の外国人と似たり寄ったりなのだが、彼女の問題は それ以前。 彼女は とにかく、存在自体が この街にも この店にも不釣合いなのだ。 せめて 服の趣味を もう少し大人びたものにできないのかと、パニエで広げたようなフリル付きの彼女のスカートを見て、氷河は思った。 氷河が 押上のバーから この店に来ることになったのは、前の店が入っていたビルが改修工事を始め、その工事が終わるまで 店を開けていることができなくなったからだった。 それと前後して、六本木の この店を任されていたバーテンダーが客と悶着を起こし、どこかに姿をくらましてしまった――らしい。 あまりにタイミングがよすぎるので、何か裏があるような気はしたのだが、店の経営者が悪意の使いどころを間違えることのない人物だということを知っていた氷河は、彼(彼女)を信用して、この店に移ってきたのだ。 「氷河が 前のお店を気に入っていたことは知ってるけど、ビルの改修工事じゃあ仕方がないでしょう。お店のオーナーさんは……あ……あの方、お名前は何て おっしゃるんでしたっけ」 「蘭子ママ」 「そう。そのキレイで たくましい蘭子ママさん。気が向かないのなら、前のお店が入っていたビルの改修工事が終わるまで、休んでいてもいいと言ってくださっていたんでしょう? なのに、氷河ったら、働き者ね。氷河は 確かに堅実なタイプには見えないけど、氷河には蓄えがないの? エドッコは宵越しのお金を持たないと聞いたけど、氷河はエドッコではないんでしょう?」 「……」 婚約者でもない男に 蓄えの多寡や年収を聞くのは失礼なことだという日本人的礼節を、フレアは持ち合わせていないらしい。 氷河は、休みなく働かなければならないほど 金がないわけではなかった。 金というものは、使わなければ貯まっていくものなのだ。 もっとも 氷河は、自分の貯蓄額どころか、年収すら まともに把握していなかったが。 「休んでいても、することがない。働き者なわけじゃない」 「することがない? 恋人と過ごす時間を増やして、その機嫌をとるとか、すべきことは いくらでもあるでしょう」 「恋人? 誰のことだ」 「意地悪ね」 「……」 ここで『意地悪』と言われる訳が、まるで わからない。 わからない自分がおかしいのかと、一瞬間だけ、氷河は疑った。 一瞬間だけ。 それは 長く考えるような問題ではない。 「機嫌をとってくれる男が好きなら、こんな店に入り浸っているのはやめて、他で そういう男を見付けたらどうだ」 「そういう方々は 大勢いるわ。でも、そういう方々って、何か 物足りないんですもの。……もう、本当に意地悪ね」 「……」 なぜ“こんな”店に来ることになったのかは知らないが、フレアは いわゆる良家の令嬢。 苦労知らずで 無意識に傲慢なところはあっても 悪意はない。大まかな分類では“善良”のグループに属する人間だろう。 この店には不釣り合いだが、顔立ちも整っている。 彼女の言う通り、喜んで 彼女の機嫌を取る男はいくらでもいるに違いない。 父親は 日本法人を持つ北欧家具の貿易商で、フレアの姉を国政に進出させるつもりでいるらしく、いずれ自分は姉の秘書を務めるつもりだと、フレアは言っていた。 そういう家なら、フレアの家族は、政治力か経済力で 家の力になりそうな男を掴まえることを次女に期待しているのではないかと、氷河の察していた。 そのための日本留学なら、フレアは こんな店に通っている暇はないはず。 親に連絡を入れれば、激怒した親が この場違いなお嬢様を故国に連れ帰ってくれるのではないか――。 彼女が この店にやってくるたび、氷河は そんなことを考えてしまう。 氷河が、そんな愚にもつかないことを考えてしまうのは、そんなことを考えずにいられないほど、考えることがないから――だった。 この店に来る前は こんなことはなかった。 生きていることに緊張感があり、毎日が もっと充実していた――ような気がする。 何かが足りない。 身の程知らずの三下も、馴れ馴れしく 乗りの軽い外国人も、場違いな少女趣味の客も――何もかも どうでもいい。 こんな気持ちになる以前、確かに自分は常に快い緊張に支配されていた――と思う――そう感じる。 あの緊張感、充実感を生んでいたものは何だったのか。 その“何か”を思い出せないことへの苛立ちを消し去ることができず、今 氷河を支配しているのは不快な緊張感だけ。 やはり しばらく店に出るのはやめようかと、氷河は考え始めていた。 以前は こんなことはなかった。 何もない平穏な日々にも、それを詰まらない日々だと思わせない何かが存在していた。 それが何なのかは どうしても思い出せないが、それが 今 自分の側に(あるいは、自分の中に)存在しないことだけは わかるのだ。 |