することがないという理由で 店に出ても、苛立ちが募るだけ。
することがないなら、することがないまま、引きこもりでもしていようかと考えて、氷河が店のオーナーに その旨を打診したのは、フレアが六本木の店に顔を出した翌日のことだった。
店に出ず 引きこもっていれば、フレアに まとわりつかれることもないだろう。
彼女が嫌いなわけではないのだが、時折――しばしば――その悪意のない鬱陶しさに我慢ができず、氷河は彼女を怒鳴りつけてしまいそうになるのだ。
『おまえじゃない。俺が会いたいのは、俺が見たいのは、俺が一緒にいたいのは、おまえじゃないんだ!』と。
それは、誰にとっても よいことではない――フレアにとっても、他の客にとっても、店のオーナーにとっても、氷河自身にとっても。
そして、氷河が会いたい“誰か”にとっても よいことではない。
そうなる前に手を打った方がいいと、氷河は思ったのである。


「何もかもどうでもいい? それって、鬱の前兆じゃない? やだやだ、氷河ちゃンが鬱だなんて。今すぐ お医者様にかかりなさい!」
『氷河ちゃン』はやめてほしいが、『氷河さン』は困るし、『氷河くン』は腹が立つ。
そして なぜか、氷河は、彼(彼女)に『氷河』と呼び捨てにされるのも、平時は嫌だった。
が、相手は店のオーナー、そもそも氷河は呼び方に注文をつけられる立場にない。
一度『氷河ちゃン』と呼ばれ、返事をしてしまったのが運の尽きで、それ以来、氷河は彼(彼女)に『氷河ちゃン』と呼ばれ続けていた。

「俺は、鬱になれるほど真面目な男じゃありませんよ。何事に対しても」
ただ一つのことを除いて。
だが、その ただ一つのことが何なのかを思い出せない。
苛立ちそうになる自分を、氷河は懸命に抑えた。
氷河が苛立ちかけていることに気付いていながら、彼(彼女)は それを無視してくれる。
「私が予約を入れておくわ。従業員の健康診断は、雇用者の義務なのよ」
「俺は しばらく店を休ませてもらえれば、それで――」
「鬱の原因は わからないのね。それなら、神経科、精神科、心療内科――。ああ、気にしないで。今は、厚生労働省から出ている労働災害防止計画で、従業員のメンタルヘルスケアについても、雇用者は――」
「俺は、そんなところに行きたくない」
「なら、総合診療医か、カウンセラーね。そうそ。とーっても評判のいい お医者様がいるって聞いたわ。アタシと張り合うくらいキレイで、可愛くて、賢い お医者様」
「……」

彼(彼女)と張り合うくらいキレイで、可愛くて、賢い医者。
蘭子が白衣を着た姿を想像し、そんな医者にかかったら 何をされるか わかったものではないと、氷河は思うともなく思った。
それが愉快なわけでも不快なわけでもなく――どうでもいい。
氷河は、本当に、何もかもが どうでもよかった。
「医者が綺麗でも、何にもならないだろう。医者が綺麗なことと医者の腕の良し悪しには、何の関係もない」
「関係、大ありよ! 私は、私の好みじゃない医者に 氷河ちゃンを診てもらいたくなんかないわ! これは、オーナー命令です。お店は休んで、明日 必ず 病院に行きなさい。そして、アタシに診断書を提出すること!」
「……」

いつもは大抵の我儘をきいてくれるのに、今日の彼(彼女)は妙に硬い。
そこまで 彼(彼女)が“氷河ちゃン”の身を案じてくれるのは有難いことだと思うのだが、それすらも“どうでもいい”と思いかけ――そして、氷河は そんな自分に呆れてしまったのである。
やはり、彼(彼女)の勧めに従った方がいいのかもしれない。
氷河は、無理に そう思うことにした。






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