以前の自分を常に支配していた 快い緊張感。
蘭子と張り合うくらいキレイな その医師に会った瞬間、氷河は それを 実感として思い出した。
これほど優しげで 温厚そうな医師の前で、なぜ自分は こんなにも緊張するのか。
それは、この医師が 蘭子と張り合うくらいキレイだからなのか――。

氷河は、息をするのも忘れて、そのキレイな医師の瞳に見入った。
キレイな医師も、氷河と同様の衝撃を感じたらしく、氷河が診察室に入ってから かなり長い間、彼(?)は無言で――言葉もなく、氷河を見上げ、見詰め、氷河に椅子に掛けるよう勧めることもしなかった。
時間が進むのが 異様なほど遅く感じられ、同時に 光のように速く感じられ――時間も空間も何もかもが 世界から消えてしまったような気がした。
この世界にいるのは、ただ一人の人だけ――二人は、ただ二人だけ。
そんな錯覚に、氷河は囚われたのである。

「あ……すみません。お綺麗な方なので、驚いてしまって」
白衣を着た医師が、自分自身に当惑しているような声で そう言い、氷河に椅子を勧めてくる。
「おまえほどでは」
そう応じてから、氷河は、
「君ほどでは」
と言い直し、
「あなたほどでは」
と、再度 言い直した。
二度目は、自分たちが初対面の他人同士だということを思い出して。
三度目は、彼(?)が 自分を診断してくれる医師だということを思い出して。

氷河が そんな おかしなことをしてしまったのは――せざるを得なかったのは――綺麗な医師の名が わからないから。
「ど……どうされたんですか。氷河……氷河さん」
問診票を見ながら、医師としては必要な作業なのだろうが、そんな詰まらないことを訊いてくる医師に、氷河は逆に問い返した。
「おまえは」
「は?」
「名前だ」
「しゅ……瞬です」
「瞬」

これで 少なくとも、“あなた”呼ばわりはしなくて済む。
それにしても、何という快い緊張を生む響きであることか。
“瞬”。
その名を聞き、その名を口にしただけで、全身に力が戻ってきたことを、氷河は明瞭に自覚した。
「どこも悪くはない。俺は そのつもりだが、雇い主に病院に行って診てもらってこいと言われた」
「どこも悪くないのでは――」
「どこも悪くない人間は、ここに来ては駄目か」
「駄目というわけではないのですが、そういう方は診察ではなく、健診センターの方に……あ……」

問診票から顔を上げた医師は、氷河と目が会うと すぐにまた その目を伏せてしまった。
彼(“彼”のようだった)は、どう見ても、自分の患者と目を会わせることを恐れている。
だが それは おかしなことだと、氷河は思ったのである。
この綺麗で優しげな医師は、彼の患者より強大な力を持っている。
それは確信だった。
しかし、その根拠が わからないのだ。
自分より小さく、細く、華奢で、気弱げ。歳も下だろう。
にもかかわらず、とにかく勝てる気がしない。
どんなことででも 勝てる気がしない。
もし 今 ここで、彼に『二度と ここに来るな』と言われてしまったら、自分は 本当に鬱になることもできてしまうだろう。
氷河は そんな気がした。

「自分では わからないが、何か問題があるのかもしれん。それを確かめてから、改めて出直す」
この綺麗な花を、これ以上 困らせたくない――泣かせたくない――嫌われたくない――“嫌われたくない”。
だから――そんなことを恐れている自分に驚きながら、氷河は掛けていた椅子から立ち上がり、心だけを その場に残して 診察室を出たのである。


持ち帰ることができなかった心を取り戻すために、氷河は その日、S国際病院の職員専用通用門の前で、瞬が出てくるのを待った。
3時間ほど待ち、瞬が門を出てきたのは 午後8時過ぎ。
その姿を視界の内に捉える前から、氷河には、瞬がやってくる気配を感じ取れていた。
温かく優しく、すべてを包み込むような快い気配。
その快さの中にいるためになら、何も惜しいものはない。
そのためになら、自分は すべてを投げ出すことすらするだろう。
一瞬の躊躇もなく、 そう思ってしまえる不思議な存在感。
氷河は引き寄せられるように、瞬の側に歩み寄っていった。

「瞬。話がある」
「あ……」
瞬は――瞬も、その姿を認める前から、そこに氷河がいることには気付いていたようだった。
そこで二人が出会うことを覚悟して、瞬は そこにやってきた――ように、氷河には感じられた。
だが、実際に会ってみると、“瞬”には、思っていた以上に“氷河”が恐いものであったらしい。
目が会うなり、瞬は その身を翻した。
そして、そのまま、氷河の前から逃げ去っていってしまったのである。
瞬が その身から生み出す快い“何か”に、『追ってこないで』と懇願され、氷河は瞬を追うことができなかった。






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