氷河の様子がおかしい。 そう言って、瞬が 仲間たちに心配顔を向けてきたのは、日本列島が本格的な梅雨のシーズンに突入入して まもなくのことだった。 その日も、朝から しとしとと、いかにも梅雨時の雨らしい雨が降っていて、昼下がりの空は灰色。 城戸邸ラウンジでは室内灯が煌々と灯っていた。 「氷河がおかしいのなんて、いつものことじゃん。氷河がおかしくなかったら、心配してもいいかもしれないけど、いつも通りにおかしいんだから、何も心配することなんかないだろ」 じめついた時季だからこそ 明るさ軽やかさを欲している様子で、星矢が瞬の憂い顔を笑い飛ばす。 「そんな言い方は……」 軽薄と言っていいほどの星矢の明快さに、瞬の瞳の憂いの色は、むしろ その深さを増すことになったのである。 「いつもと違う おかしさなのか」 そんな瞬を見て 紫龍が出してくれた助け舟の縁に、瞬は 即座に すがりついた。 「この頃は、特に用がない時には いつも 自分の部屋に閉じこもってて、ずっと 独り言を ぶつぶつ言ってるの。部屋の中には誰もいないのに」 「部屋の中に誰もいないから、独り言になるんだろう」 「え?」 紫龍に指摘を受けて、瞬は 自分の言い方がおかしかったことに気付いた。 確かに、誰もいない部屋で独り言を言う行為は、特に奇矯な行為ではない。 誰もいない部屋で会話をしていたら、それは確かに危険な行為だろうが。 瞬は 自分の心配事を言い直した。 「独り言にしては変なんだよ。まるで誰かに話しかけているみたいな調子で話してるの。誰かいるのかと思って、氷河の部屋の中に入っていくと、でも、そこには 氷河しかいなくて――。『誰かと話してなかった?』って訊いても、一人でいたって言うんだ」 瞬が案じているのは、氷河の独り言が会話形式で為されていることだった。 瞬の訴えを聞いて、明るい話題を求めているはずの星矢が、その話に乗ってくる。 「あ、それ、俺も聞いた。『大人しくしていろ』だの、『ここから出るな』だのって、誰かに向かって言ってんだよな。最初は野良猫でも拾ってきて、秘密で飼ってるのかと思ってさ。不意打ちで部屋ん中に入ってってみたんだけど、猫どころか、氷河の他には ネズミ1匹 いなかった」 「……」 実際に その場に遭遇していながら、星矢は なぜ氷河を心配せずにいられるのか。 明るい口調での星矢の報告は、少なからず瞬を戸惑わせることになったのである。 小さなことには こだわらないのが星矢の長所だが、これは決して“小さなこと”ではないだろう。 「僕の時は、『外に出たら死ぬぞ』とか『このままでは俺も死ぬしかない』とか『それも本望だ』とか、そんなことを言ってたんだよ。僕、びっくりして――」 慌てて氷河の部屋に飛び込んだのだが、そこには誰もいなかったのだ。 「死……? それは 穏やかではないな」 星矢よりは 事態を深刻に受けとめてくれたらしい紫龍が、瞬の告げた言葉に 眉を曇らせる。 やはり これは笑って通り過ぎていい事態ではないのだ。 瞬は、紫龍より鎮痛な表情で 彼に頷いた。 「うん……」 もし氷河が 本当に一人で、誰かと会話を成り立たせているのなら、それは、氷河自身にとっても、彼の仲間たちにとっても、捨て置くことのできない重大な問題――事件なのである。 ――のはずなのだが。 この深刻かつ重大な問題について、やっと真面目に語り合うことができると 瞬が思ったところに、星矢が またしても明るく水を差してきた。 「さすがにもう 神サマって線はないだろうし、氷河の奴、幽霊にでも 憑りつかれてんじゃないのか?」 なぜ 星矢は、そんなことを、楽しげに身を乗り出し 瞳を輝かせて言い出すことができるのか。 瞬は、星矢の その感性が今ひとつ――もとい、全く――理解できなかった。 「ほら、提灯持った美人の幽霊がゲタをカラーンコローンと鳴らしながら、男のところにやってくる話があっただろ」 「『牡丹灯籠』か。ならば、持ってくるのは提灯ではなく灯籠だな」 「そんなのどっちでもおんなじだって」 「まあ、持ち運べる照明器具という点では同じものだが……」 生きたまま冥界に赴き、そこで神と戦ったこともある人間が 幽霊を語ることのシュール――むしろ、ナンセンス。 そんなことがあり得るのかと、瞬は 混乱する頭で考えた。 「牡丹灯籠って、確か――」 「元は中国の明代に編まれた怪異小説だ。女の幽霊と逢瀬を重ねた男が 取り殺される話だな」 「氷河が幽霊に憑りつかれてるなんて、まさか。たとえば氷河のマーマとかカミュが 幽霊として氷河の前に現れたとしても、その幽霊は、氷河が生きて幸せになることしか望まないよ。もし そうでなかったら、それは氷河のマーマでもカミュでもない。それは氷河にだってわかるはずだよ」 「では、おまえは 何を心配しているんだ。おまえは 氷河の独り言を何だと思っている?」 「それは……」 紫龍に問われて、瞬は答えを口ごもった。 『もしかしたら』と思うことはある。 だが それは、実に口にしにくいこと、声に出して仲間たちに語りたくないことだったのだ。 もし そうだったなら、それは 誰にとっても――氷河にとっても、氷河の仲間たちにとっても――つらく悲しく切ないことだったから。 瞼を伏せ、更に顔を伏せ、結局 口をつぐんでしまった瞬を、紫龍は しばらく無言で見詰めていた。 その沈黙の中で、紫龍は察してくれたのだろう。 瞬が仲間たちに何を求めているのかを。 瞬が求めていたのは、瞬が考えている『もしかしたら』以外の可能性だった。 もちろん、“氷河は幽霊に憑りつかれている”というような奇天烈な可能性ではない。 もっと現実的な、そして もっと深刻でない、できれば笑い話にしてしまえるような可能性の提示を、瞬は仲間たちに求めていたのだ。 紫龍は そのことに気付き、だが 残念ながら、別の『もしかしたら』を思いつけなかったのだろう。 だから 彼は 瞬に、 「氷河は自分の部屋か? ちょっと、様子を見に行ってみるか」 と言ってくれたに違いなかった――否、彼には 他にできることがなかったのだ。 「ん……うん……」 野良猫でも神でも幽霊でもない、アンドロメダ座の聖闘士が考えている『もしかしたら』以外の何か。 氷河の仲間たちが打ち揃って それを探しにいったら、その“何か”が見付かるかもしれない――何かが わかるかもしれない。 一縷の希望に すがって、瞬は紫龍の提案に頷いた。 |