瞬の夜更けの来訪に、氷河は戸惑っていた。 瞬の来訪自体は嬉しいのだが、それを単純に喜ぶことを、瞬の思い詰めた瞳が許してくれないのだ。 瞬に こんな つらそうな目をさせるような何かを、自分はしてしまったのか――と、ここ数日の自分の言動を振り返ってみたのだが、氷河には心当たりが全くなかった。 氷河に 困惑するなという方が 無理な話だったろう。 あげく、ふいに仲間の部屋にやってきて、長い沈黙を作り、その沈黙のあとに瞬が 氷河に手渡してきた言葉が、 「氷河……寂しいの?」 なのだ。 氷河は、わけがわからなかった。 「なに?」 アテナの聖闘士に――瞬の仲間に――瞬は なぜ そんなあり得ないことを訊いてくるのか。 これは 新手の冗談なのか。 冗談なのだとしたら、なぜ そんな冗談を、瞬が――星矢や紫龍ではなく、瞬が――わざわざ 仲間の部屋にまでやってきて言うのか。 そこには 何らかの深い意味があるのか。 そして、なぜ瞬は こうまで思い詰めた目をしているのか。 瞬の奇妙な質問の意味について、氷河は様々に考えを巡らせたのだが、その作業によって得られたものは新たな疑問ばかり。 答えは一つも出てこない。 氷河は 瞬に どんな答えを返すこともできなかった。 沈黙する仲間に、瞬が重ねて問うてくる。 「僕じゃ、氷河の支えには なれない? 僕じゃ、氷河を寂しくなくすることはできない? 僕たちは仲間だよね?」 瞬の思い詰めた目は、すがるように 彼の仲間を見詰めている。 その問い掛けの意図は 相変わらず掴めない。 問い掛けの意図は掴めないのだが、瞬が今 彼の仲間に期待している答えが どんなものであるのかということだけは、氷河にもわかった。 『僕たちは仲間だよね?』 『もちろんだ』 瞬の求める答えは、それなのだ。 瞬にとって“氷河”は仲間だから。 “仲間”でしかないから。 しかし、氷河にとっては――。 氷河は、瞬の前で正直な人間でいるために、 「違う」 と答えるしかなかったのである。 「……!」 仲間の答えに衝撃を受けたのだろう。 瞬が瞳を見開き、息を呑む。 衝撃の一瞬が過ぎると、瞬の瞳は 徐々に涙の膜に覆われ始めた。 「僕は……氷河が僕を仲間だと思っていなくても、僕にとって氷河は大切な仲間だから、僕は氷河を助けたい。氷河が一人で泣いてるなんて、そんなこと、僕には耐えられない。氷河を孤独でなくするためになら、僕は何でもする」 「……」 瞬は なぜ そんなことを言い出したのか。 その答えは、氷河には やはり わからなかった。 その訳はわからなかったのだが。 瞬は、神によって“清らか”のお墨付きを与えられた人間である。 当然、瞬の言葉には悪意はないだろう。 それは 氷河にもわかっていた。 否、神のお墨付きがなくても、 そんなことは最初から わかっていた。 だが、清らかな人間が人を傷付けないとは限らない。 むしろ。清らかな人間こそが、その清らかさゆえに、多くの人間を――清らかでない多くの人間を――傷付けるのだ。 『大切な仲間だから、僕は氷河を助けたい』 それは、他の どんな言葉よりも、氷河を傷付ける言葉だった。 「軽々しく そんなことを言うな。何でもする? 俺が その言葉を信じてしまったらどうするんだ」 「氷河……」 仲間を突き放すような氷河の答えに、瞬の衝撃と動揺は更に大きく深くなったようだった。 「氷河、信じてくれないの……」 切なげに、身悶えるように、瞬が力ない声で呟く。 その声や眼差しが、仲間を信じない男を責める響きや色を帯びていないのは、それが瞬だから。 そして、仲間の冷たい言葉に傷付いても、瞬がその場から逃げ出さないのは、瞬がアテナの聖闘士だから。 瞬が、諦め絶望することを潔しとしないアテナの聖闘士だから――だったろう。 「信じて。僕は何でもする。氷河を傷付けること以外なら。誰かを傷付けること以外なら」 「……」 『大切な仲間だから、僕は氷河を助けたい』 そんな冷酷な言葉を平気で言ってしまう人間が、大言壮語している。 氷河は、そう思ったのである。 恋する相手に、仲間として そんなことを言われる人間の気も知らずに――と。 それが苦しくて、癪に障って――だから 氷河は瞬に言ってしまったのだった。 多分に意地悪な気持ちで、 「なら、俺にキスしてくれ」 と。 「え?」 白鳥座の聖闘士の求めるものが、瞬には どれほど思いがけないものだったのだろう。 仲間が求めるものに、暫時 虚を突かれたような顔になり、それから 気を取り直して――瞬は氷河に尋ねてきた。 「あ……あの、マーマみたいに?」 「できないなら、金輪際 無責任な軽口は――」 『叩くな』と言いかけた氷河の唇に、必死に爪先立った瞬の唇が降れる――届く。 (なにっ !? ) 我が身に何が起こったのか。 咄嗟に理解が追いつかず、氷河は その場に 棒立ちになった。 いったい何が起こっているのか。 これは夢なのか。 瞬は、どこぞの質のよくない神に、仲間の願いを叶えなければ死ぬしかないような呪いでも かけられたのか。 そんな馬鹿なことが――と疑いつつ、氷河は 試しに(?)再度 瞬に“自分がしてほしいこと”を言ってみたのである。 「じゃあ……俺を抱きしめてくれるか」 言った途端、確実に1秒以上の間を置かず、瞬の両腕は白鳥座の聖闘士の背にまわり、瞬の頬は白鳥座の聖闘士の胸に押しつけられてきた。 (えええええっ !? ) 何が――本当に、いったい何が起きているのだろう。 どこぞの邪神のせいで、今夜 突然 世界が発狂してしまったのだろうか? 急激に――氷河の喉は渇き、氷河の声は かすれ始めていた。 「おまえ、俺に 何でもするなんてことを言ってしまったから、その言葉を嘘にしないために無理をしているか? 本当は、したくないのに無理に――」 「無理なんて、そんなことしてないよ。氷河が寂しい時には、僕、いつだって氷河を抱きしめてあげたいって思っていたよ。これまでは、氷河が嫌がるかもしれないって思うから、勇気を出せなくて、それに ちょっと恥ずかしかったから、そうできなかっただけ」 地上世界が発狂している。 だというのに、世界の平和を守るために戦うべき アテナとアテナの聖闘士たちは いったい何をしているのか。 この発狂した世界に 平和と秩序を取り戻すために 彼等が今 戦っていないのなら――それは、世界はこのままでいていいということなのだろうか。 世界は 狂ったままでいて構わない。 それがアテナの判断なのだろうか。 氷河は、心臓を大きく強く速く波打たせながら、瞬に問うた。 「俺は本当に孤独ではないのか」 「もちろんだよ」 「俺はおまえを信じていいのか? おまえは、俺を信じている?」 「うん」 「俺が傷付かず、俺以外の誰も傷付かないなら、どんなことでもする?」 「氷河を寂しくなくするためになら、何だって。どんなことだって、僕はするよ」 「――」 人生は夢にすぎない。我を忘れて、ただ狂え――。 そんな歌を記した歌集があった。 あれは、何というタイトルの歌集だったか。 人生は 儚い夢にすぎないと歌いながら、収められている歌のほとんどが恋の歌。 人は 昔から、恋に狂って、無常の憂き世を生き、耐えてきたのだ。 地上世界に生きる人々を守るために命をかけて戦うアテナの聖闘士が、地上世界に生きる人々と同じように生きることに、どんな問題があるだろう。 何も問題など ありはしない。 夢のような人生の ただ中で、まるで言い訳のように、氷河は そう思った。 |
※ 「一期は夢よ、ただ狂え」 歌集 :『閑吟集』 1518成立。
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