北冬国に比べて気候がいいにしても、なぜ この国には こんなに人がいるのかと、東春国の都の大路を歩きながら、氷河は思っていました。 政変や内乱の噂があるにもかかわらず、民が国外に避難しようとする気配がないのは結構なことだとも思っていましたけれどね。 ですが、東春国の都には 確かに目に見えない緊張感のようなものがあって、都大路を行き交う人々の足は皆、どこか浮足立っているようにも感じられました。 とにかく、やたらと皆が せかせか歩いていて、誰も ぶつからずに歩いているのが不思議なくらい。 もっとも それは、どんな障害もない北冬国の広い大地を馬で駆けまわることに 氷河が慣れてしまっていたせいだったかもしれませんが。 東春国の都大路は、馬車を引く馬以外、馬の乗り入れは禁じられていたのです。 「都大路の中央の広場というと この辺りだと思うんだが……」 実は氷河は、東春国に来たのは これが初めて。 それどころか、故国である北冬国を出たのも これが初めてのこと。 人が多く 道も複雑で入り組んでいる東春国の都で、氷河は自分が どこにいるのかが よくわからなくなっていました。 氷河は もちろん、東春国の言葉はマスターしてきたのですが、東春国のネイティブは誰もが かなりの早口で、しかも訛りがひどいのです。 氷河が話す標準語は理解してもらえるのですが、相手が話す言葉は 氷河には今ひとつ聞き取りが困難。 道を尋ねると、あっちだこっちだと教えてくれる者たちの答えが違って(違うように聞こえて)、氷河は自分が彼等に人種差別の嫌がらせを受けているのではないかと疑うほどでした。 民族の坩堝と言われるだけあって、約9割の人間は黒髪と黒い瞳の持ち主であるにしても、様々な色の髪や瞳や肌の人間が通りを歩いていましたので、氷河が その金髪碧眼のせいで差別されているのではなさそうでしたけれども。 事前の打ち合わせでは、先に この国に潜入している星矢か紫龍が 都大路の中央の広場に 氷河を迎えにきているはずだったのですが、氷河は どうしても友人の見付けることができませんでした。 人の波に押され、自分は いつの間にか 約束の場所とは違う場所に来てしまったのではないかと、氷河は考え始めていました。 ええ。もちろん、氷河の懸念は当たっていましたとも。 氷河が立っている場所は、東春国の都の中央広場ではなく、王宮と見紛うほどに大きな館の前でした。 その館の内庭は 頑丈な門と塀で囲まれているのですが、その内庭を囲む広い外庭は民衆に開放されているらしく――つまり、氷河は いつのまにか、都大路の広場ではなく、大きな屋敷の出入り自由の外庭に入ってしまっていたのです。 「俺は、なんで こんなところに――」 自分が まるで見当違いの場所にいることに気付いた氷河が 回れ右をして、その庭を出ようとした時、氷河の腕を掴んだ者がいました。 それは いかめしい黒と赤の派手な鎧をまとった巨漢の兵士で、どうやら この館の私兵のようでした。 彼の鎧の胸には、館の門に描かれている家紋と同じ鳳凰の意匠が描かれていましたので、氷河は そうと察しました。 その兵士が、少しでも人の密集していない方へと移動してきた氷河の腕を掴んで言うことには。 「今度の挑戦者は異国のお人か。まあ、挑戦するものに条件や制限はつけられていないからな」 「へ」 氷河は、彼が何を言っているのか、にわかに理解することができませんでした。 氷河は、言ってみれば、ただの迷子。 本当なら、この場にいるはずのない人間でしたから。 慌てて周囲を見回しますと、氷河は いつのまにか、大変な人だかりの輪の中央に立っていました。 もとい、それは“輪”ではなく、館の内門を中心に置いた半円でした。 大きな館の内庭に続く内門と おぼしき門の前に、貴人が外出時に用いる輿が一つ。 あまり大きな輿ではありませんでしたが、それは屋根の頭頂部に鳳凰を乗せた鳳輦。 簾が下りているため、中に どんな人物がいるのかは、氷河には わかりませんでした。 地面に敷かれた赤絨毯の上に置かれた輿の脇には、揃いの お仕着せを身に着けた輿の運び手が左右それぞれに4人ずつ控えています。 おそらく、輿の中には、この館の主人か その家族がいるのでしょう。 氷河は、そう察しました。 「挑戦者? 俺が? 俺が何に挑戦するんだ」 「何に挑戦――って。孔雀の目を射るんだよ」 「孔雀の目を射る? そんなことができるか。かわいそうだろう。悪趣味な遊びはやめろ」 氷河は、東春国の有力な貴族が、その館の庭で 民に余興を演じさせて無聊を慰めているのだろうと考え、巨漢兵に そう言いました。 退屈というものは 存外 つらいことですから、そういう遊戯自体は 好きにすればいいでしょうが、遊びで無益な殺生をするのは感心しません。 孔雀なんて、どう考えても美味しい鳥ではありません。 命を奪って そのまま捨て置くのなら、生かしておいて その美しい尾羽を眺めていた方が よほどいい退屈しのぎになるというものです。 氷河は そんなに変なことを言ったつもりはなかったのですが、氷河の その言を聞いた巨漢兵は、奇妙な顔をして氷河を じろじろ見下ろしてきました。 そして、怪訝そうに尋ねてきます。 「知らないのか? 射るのは、屏風に描かれた孔雀の目だ」 「屏風に描かれた孔雀の目?」 「そうだ。一里300歩の距離から、屏風に描かれた孔雀の目を射ることができたら、あんたは この国の皇帝になれる」 「なに?」 それは いったいどういうことなのでしょう。 東春国には、つい2年ほど前に帝位に就いた若い皇帝がいるはずです。 氷河が訝り 眉根を寄せると、巨漢兵は慌てた様子で自分の発言を訂正してきました。 「なれるかもしれない……いや、それくらいの喝采を浴びるってことだよ」 なんだか歯に物の挟まったような言い方。 ですが、なにしろ 氷河は、都訛りのひどい 彼の東春国語を正しく聞き取れている自信がなかったので、巨漢兵に突っ込んで 彼の真意を確かめる気になれなかったのです。 巨漢兵は、訛りもひどいものでしたが、その声も あまり美しいものではなかったので。 「屏風に描かれた孔雀の目なら、まあ……それなら挑戦してやってもいいが」 「そうこなくては。この頃、挑戦者が減ってきていて、民は皆 苛立ってるんだ」 半分 独り言のように そんなことを言って、巨漢兵は 身体の向きを変え、輿の中にいるのだろう貴人に向かって 恭しく お辞儀をしました。 おそらく、そうすることで 彼は、余興の始まりを 彼の主人に知らせたのでしょう。 まもなく 内門の向こうから一隻六扇の屏風が運ばれてきて、氷河には竹製の丸木弓と矢が2本 手渡されました。 広い庭に集まっていた民衆が後ろに下がり、屏風の前に広い空間を作ります。 それを確かめると、巨漢兵は、屏風から300歩分 後ろに下がるよう、氷河に指示してきました。 弓の競技は、普通、遠的で60歩、近的なら30歩の距離から的を射ます。 300歩は超々々遠的。 それは、おそらく この余興の特別ルールなのでしょう。 屏風に描かれた孔雀は等身大。 いくら動かない絵の孔雀が的とはいえ、相当 優れた弓兵でも その目を射抜くのは至難の技です。 おまけに、氷河が手渡された弓は 東春国風の長弓で、氷河が故国で用いていた短弓とは 少々 勝手が違っていました。 とはいえ、弓なんて、素材や大きさに多少の違いがあっても、それで 射る方法がわからなくなるほど複雑なものではありません。 弦の張りを自分の手で調整して、氷河は示された的 めがけて、矢を射かけました。 第一射は孔雀の右目に、第二射は孔雀の左目に。 もちろん 矢は命中しましたよ。 氷河は、音楽や文芸はともかく、剣や弓や格闘技等、戦闘の才と技術は北冬国屈指の戦士でしたから。 「め……命中! 二射共、見事に孔雀の目を射抜いております!」 的である屏風が倒れないよう 脇で支えていた小柄な兵が、氷河の射た弓の突き刺さった場所を確認し、震える声で報告しますと、この余興を見物していた民たちがどよめき、まもなく それは大歓声に変わっていきました。 「命中だ! ついに孔雀の目を射抜く御方が現われた!」 「これで東春国も安泰だ!」 「すごい! いとも たやすく射抜いてみせたぞ」 「だが、あれは異国の者ではないか。そんな者が この国の――」 「異国人だって何だって、あの馬鹿帝より ましだ」 「かなりの美丈夫ではないか。あの男なら、――様とも釣り合う」 「うむ。見映えするのは確かだ」 「なに。政務の方は、慈悲深く 深謀遠算、聡明な――様が、つつがなく執り行なってくださるさ」 訛りや早口のせいもありましたが、その上 誰もが興奮しているので、氷河は彼等の言っていることを よく聞きとることができませんでした。 が、彼等が氷河の見事な技を見て喜び、興奮し、氷河に喝采を浴びせかけているのは確か。 偉そうに構えていた あの巨漢兵までが、氷河の前に身を投げ出し、地面に額を押しつけて、 「実に鮮やかでございました。この ご快挙を、心から お慶び申し上げます」 とか何とか、耳障りな胴間声で 氷河を称賛してきます。 余人に自分の力を認めさせ、その力の前にひれ伏す様を見るのは、なかなか気持ちのいいことです。 氷河は いい気分で顎をしゃくり、平身低頭の巨漢兵に尋ねました。 「この程度のこと、朝飯前だ。何か褒美がもらえるのか」 「朝飯前とは、さすがでございます、我が君」 「散々 歩き回って腹が減ってるから、金品より食い物がいいな」 東春国には 武芸に秀でた者を『我が君』と呼ぶ習わしでもあるのだろうかと思いながら、氷河が褒美を求めた時。 「褒美は私です」 という、巨漢兵の胴間声とは比べものにならないほど――比べるのも失礼に思えるほど――澄んだ声が、氷河の許に届けられました。 「なに? ワタシ?」 東春国には『ワタシ』という食べ物があるのだろうか、そんなことを考えながら、氷河は その声のする方に視線を巡らせたのです。 |