「老師。老師は、素麺は食されますか? 城戸邸に お中元で素麺が山ほど届いていて、いつも片付けるのに苦労しているんです。もし食されるようでしたら、一部をこちらに送らせようかと思っているんですけど」
瞬が童虎の守護する宮を訪れたのは、氷河が 晴れ晴れとした気持ちで 天秤宮を辞していった、その直後。
僅か10分ほどの 入れ違いだった。
「いつも気遣ってくれて、すまんの。もちろん食すぞ。日本の素麺は 実に繊細で、喉ごしがいい。今流行の禅パスタも悪くはないがの」
「よかった。多分、調理の方は紫龍がしてくれると思いますので――あれ?」

禅パスタという食べ物が どういうものなのかは知らなかったが、ともあれ 大量の素麺の引き取り手を得たことは 有難い。
ほっと安堵の息をついた瞬が首をかしげることになったのは、この場にあるはずのない氷雪の聖闘士の小宇宙の気配を、瞬が感じ取ったからだった。
童虎が、瞬の疑念を察して。それが この宮に残っている事情を、かなり はしょって説明する。
「ああ、ついさっきまで、氷河がここにおったのじゃ。なぜ瞬はあんなに可愛いのかと、相談されての。可愛いから可愛いのだと答えておいた」
「まさか。そんな相談、きっと冗談ですよ」

多分に『冗談であってほしい』という願望込みで微笑しかけた瞬の顔が にわかに掻き曇ったのは、今 自分の目の前にいる大量の素麺の引き取り手がどういう人物であるのかということを、瞬が思い出したからだった。
童虎の磊落な性格のせいで 平素は忘れていることが多いのだが、天秤座の黄金聖闘士は 聖闘士の善悪を判定する要の聖闘士ということになっている。
その事実を思い出して、瞬は、今は到底250歳以上の高齢者には見えない童虎の姿を、改めて その視界に映すことになったのである。

「老師。僕も一つ、老師に ご相談させていただきたいことがあるんですが……」
「何じゃ。何でも言うてみい」
瞬の相談事なら、それは氷河の相談事より厄介なものではないだろう。
そう考えた童虎は、季節の付け届けへの返礼も兼ねて 安請け合いをした。
が。
瞬の相談なら さほど厄介なものではないだろうという童虎の楽観的推察は、見事に大外れ。
否、当たってはいたのだろう。
厄介なのは、それが瞬の相談事だからではなく、瞬の相談事が氷河に関することだから――だった。

「僕、もう ずっと、兄と氷河の不仲に悩んでいるんです。共にアテナと地上の平和のために戦う仲間同士なのに、氷河と兄さんは、顔を会わせるたび 角突き合って、反発し合って……。どうして、氷河と兄さんは あんなふうなのか――」
「……」
兄と白鳥座の聖闘士の不仲を『なぜ』と深刻に悩んでみせる瞬に、本音を言えば 童虎は、『どうして、“どうして”と悩めるのか』と訊き返したかったのである。
堅物聖闘士の紫龍と お子様聖闘士の星矢が なぜ瞬に恋愛感情を抱かないのかなどという馬鹿げた悩みを真面目に悩むような男と、ブラコンで名を馳せまくっている鳳凰座の聖闘士が 仲良くしていたら、その方が よほど不自然である。
瞬の悩みは、そもそもの根本が間違っているのだ。

が、童虎は、その点に突っ込みを入れることを、あえて避けたのである。
目上の者に気を遣い、季節の付け届けを欠かさない礼儀正しい後進に、さすがの童虎も『おぬしは馬鹿か』とは言い放つことはできなかった。
代わりに、
「小宇宙の質の問題ではないのか。氷と炎じゃからの。相性は最悪じゃろう」
という、当たり障りのない意見を口にしてみる。
遠慮がちに、瞬は 童虎の その見解に意見してきた。
「ですが、小宇宙の性質というのなら、白鳥と鳳凰は 同じ鳥類ですし」
「なに?」
真面目な顔をして 面白い理屈を述べ立てる瞬に、童虎は虚を突かれてしまったのである。
さすがは、あのシャカが その才能を見込んだ者だけのことはある。
アンドロメダ座の聖闘士が、赤子の手を ひねるように容易に扱える人間であるはずがないのだ。
一度 ごほんと大きな咳払いをして 気を引き締め、童虎は改めて この難敵に対峙した。

「瞬。おぬしは、呉越同舟の故事を知っておるか」
「呉越同舟? あ、はい。敵同士が同じ場所に居合わせたり、行動を共にしたりすることでしょう」
「そうじゃ。春秋時代、呉の国と越の国は 互いに仇敵同士じゃった。ある時、その仲の悪い呉人と越人が同じ舟に乗り合わせた。まあ、酢豚にパイナップルが入っているようなものじゃな。入れなければいいのに、パイナップルなんぞを入れるから、まずいことが起きるのじゃ」
「酢豚? 呉越同舟に酢豚が関係しているんですか?」
呉越同舟に、もちろん 酢豚は関係がない。
日頃の不満が つい口に出てしまった童虎は、瞬に真面目な顔で 酢豚と呉越同舟の関係を尋ねられ、慌てて 自らの発言をなかったことにした。

「いや、酢豚ではなく、呉越同舟じゃ。呉越同舟は、仲の悪い者同士が同じ場所にいることだと思われがちだが、あれは、本来は そういう状況を表現するだけの言葉ではないのじゃ」
「そ……そうなんですか?」
あっさり ごまかされてくれる瞬の素直さが、実に好ましい。
本当に これは一種の才能だと、童虎は言葉にも態度にも出さずに感心した。
「うむ。呉越同舟とは、乗っている舟が強風で今にも転覆しそうになれば、乗り合わせた者たちが仇敵同士であっても、普段の敵対心を忘れ、互いに助け合って危機を乗り越えようとするということを言っている言葉なのじゃ」
「そうだったんですか。すみません。僕、勉強不足で……。いいお話ですね」
「いいも悪いもない。これは兵法じゃ。生死にかかわるほどの危地に追い込めば、兵の心を一つに まとめることができるということを、士卒の統率者に教えているのじゃ」
「え……」

瞬は、その脳裏に、『仇敵同士でも、きっかけがあれば仲良くなることができる』という、お花畑的ストーリーを思い描いていたのだろう。
瞬に 半ば責めるように切なげな目を向けられて、さすがの童虎も、一応、少々、胸が痛んだ。
だが、ここで瞬を甘やかしてしまっては、天秤座の黄金聖闘士は務まらない。
というより、黄金聖闘士の沽券が保たれない。
童虎は、意識して 険しい顔を作り、それを維持した。

「戦いというものは、それほど厳しいものだということじゃ。その代わり、利害が一致すれば、敵同士でも助け合う。安心せい。おぬしの兄と氷河が仲たがいしていられるのは、地上が平和だからだと言っていい。それは、おぬしたちが力を合せて守り抜いた平和じゃぞ。そのことを、おぬしたちは誇りに思うべきなのじゃ」
「老師……」
童虎の狙い通り、瞬が、厳しくも温かい天秤座の黄金聖闘士の言に感動し、偉大な先達に 尊敬の眼差しを向けてくる。
瞬の その瞳には、涙さえ にじみ始めていた。

「お教え、肝に銘じます。僕、これまで、上辺に現れることにだけ 気をとられていて……。そうですね。氷河と兄さんが角突き合っていられるのは、今が平和だからなんですね。僕、これからも頑張ります。氷河と兄さんが平和に喧嘩をしていられるように」
「うむ。これからも励むのじゃぞ」
「はい! ありがとうございます!」

瞬の あまりの素直さに、童虎は その胸中に ある種の感動をさえ覚えていた。
瞬たち青銅聖闘士が こうであればこそ、今 この地上の平和は保たれているのかもしれない――と思う。
幾度も後ろを振り返り、そのたび 天秤座の黄金聖闘士に お辞儀を繰り返して帰っていく瞬に、とりあえず、呉の国が 越の国によって滅ぼされた事実だけは知らせないでおこうと、童虎は思ったのだった。






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