「今の貴様が黄金聖闘士だってことは知ってる。アクエリアスの氷河。貴様は、俺の兄だけじゃなく、自分を聖闘士に育て上げてくれた師までを殺した、非情で冷酷な男だ。俺は、貴様が顔の無い者の首領を倒した戦いを見ていた。貴様は随分と 心優しい甘ちゃんで――アクエリアスの氷河は 分裂症なのかと、俺は疑ったぞ。師や兄弟子をすら倒す非情な貴様と、完全な敵に同情を示す貴様と、いったい どちらが本当の貴様なのか 判断できず、理解しかねた。だが、恐ろしく強い。俺は 俺の復讐を果たすことはできないかもしれないと思った」
「ならば、やめろ」
この男とは戦いたくない――倒したくはない。
戦えば勝ってしまうだろう。
アイザックの弟の命を奪うことを、氷河は したくなかった。

「そういうわけにはいかない。確かに 俺は まだ 戦いの力では 貴様に及ばないかもしれない。だが、もし 俺が貴様を倒すことができず、俺の方が貴様に倒さることになっても、それで十分 俺の復讐は果たされることは わかったからな」
「なに……?」
「心優しい黄金聖闘士様。アイザックの命を奪い、自分を育ててくれた師の命を奪い、そして、今また俺の命を奪えば、貴様は ずっと そのことを忘れまい。貴様は ずっと そのことを後悔し続ける。それも立派な復讐だろう」
「……」
「俺は、どっちでもいいんだ。俺が着様を倒すのでも、貴様が俺を倒すのでも。貴様が苦しみさえすれば。どうする? ああ、言っておくが、貴様は俺を無視することはできないぞ。貴様が俺を倒すまで、俺は無辜の人間を殺し続ける。正義の味方の貴様には、それを看過することはできないだろう?」
彼は若く未熟だが、中途半端に頭は まわるらしい。
いちばん 厄介なタイプの敵対者だと、氷河は思った。

「おまえに殺されてやりたい。だが、それはできない。俺には 地上の平和を守るという、放棄できない務めがある」
「なら、俺と今 ここで戦え。そして、俺を倒せばいい」
「それも、できん」
「俺を倒すこともできない。俺に殺されるわけにもいかない。じゃあ、いったい貴様には 何ができるんだよ!」
「何もできない。すまない」
今の氷河にできる唯一のこと。
それは、アイザックの弟に『兄の死を忘れてほしい』と願うことだけだった。
残念ながら、アイザックの弟には、氷河の願いを叶えるつもりは全くないようだったが。

「話していても 埒が明きそうにないな。やはり 戦って蹴りをつけるしかないか。顔を消していない俺には、暗殺者の特別な力はまだ備わっていないが、問答無用で俺を倒せそうにない 心優しい黄金聖闘士様をなら、俺にも倒すことができるかもしれない。可能性はゼロじゃないだろう?」
特別な力を備えていない男が、いったい どうやって、どんな攻撃を、黄金聖闘士に仕掛けてくるのか。
まさか銃でも持ち出すのか――と訝った氷河の周囲の空気が――否、光が歪む。
そして その場に出現したのは極光――オーロラだった。
特別な力を備えていないというのは、氷河の不意を衝くための虚言だったらしい。
少なくとも、イズマイルは、氷河に倒された時のアイザック程度の力は備えているようだった。
しかし、それも、光を歪めることで自分のいる位置を敵に錯誤させ、その隙を衝いて凍気の拳を放つ程度のもの。
青銅聖闘士であった時に既に 絶対零度の技に至っていた氷河にダメージを与えられるようなものではない。

中途半端に頭がまわり、中途半端に力を持っている男――最も厄介な敵対者。
どうあっても倒すしかないのかと、氷河がアイザックの弟の命を諦めかけた時。
一般人をなら十分に凍りつかせることのできる凍気を生んでいたイズマイルの手を封じるものがあった。
実体のない鎖――だが、どんな力も容易に遮断できる力を備えた金色の鎖。
「やめて!」
「邪魔をするな! 誰だ!」
「瞬!」
瞬が自分で名を名乗る前に、氷河が 金色の鎖を生む聖闘士の名を呼ぶ。
瞬は、氷河ではなく、氷河を兄の仇と呼ぶ男の方に 切なげな微笑を向けた。

「邪魔をして ごめんね。でも、氷河に 君を殺させるわけにはいかないの」
瞬の鎖は もちろん、氷河を守るため――氷河の心を守るためのものだった。
実体のない鎖が封じているのは、イズマイルの手ではなく、その手が生み出す力。
痛みどころか、触れられている感触すらないのに、イズマイルは その顔を歪めることになった。
自由を奪われることは、それだけで“痛い”。

「瞬? 氷河の仲間か」
「僕は、黄金聖闘士 バルゴの瞬。はじめまして。氷河のお友だちの弟さん」
「バルゴの瞬……冥府の神の力を宿す者を倒した黄金聖闘士か」
黄金聖闘士が二人。
仮にも アテナの聖闘士になるための修行をしていた者の兄弟であれば、それが どういうことなのかは理解しているはず。
にも かかわらず イズマイルが恐れる様子も怯む様子も見せないのは、彼の目的が 敵に勝つことや 敵を倒すことではなく――生き延びることでさえなく――ただただ兄の復讐を遂げることだからなのだろう。
瞬も、彼を倒すためではなく、彼に生きていてもらうために――黄金聖闘士である氷河を兄の仇と狙うことの無謀を、彼に説いてやったのである。

「顔を失っていないということは、君は まだあのギルドの正式なメンバーというわけではないんでしょう? やめておいた方が無難だよ。あの組織の首領は既に氷河に倒された。“顔の無い者”は、その程度の組織。君も氷河には勝てない」
「アイザックの復讐が果たせるなら、俺は何でもいいんだ。こいつが死ぬのでも、俺が死ぬのでも」
「そうみたいだけど……氷河は、自分の命に あまり執着していないの。君に殺されても、氷河が それを無念と感じることはないと思う」
「だから――この男の命を奪っても無意味だから、こいつの命を つけ狙うのはやめろというのか!」
「そんなに結論を急がないで。短気は損気。復讐は いつでもできるよ。落ち着いて」
仲間の命を狙う“敵”に、微笑さえ浮かべて 穏やかに告げる乙女座の黄金聖闘士に、復讐者は違和感を――否、得体の知れない不気味さを感じているらしい。
それは 彼の余裕のなさの表われで――瞬は、そんな彼に同情めいた気持ちを抱き始めていた。

「君もそうでしょう? 大切な お兄さんを奪われたから、君は悲しんだ。君は苦しんだ。そして、お兄さんの命を奪った氷河を憎んだ。もし 氷河に殺されたのが君自身だったなら、君は氷河を恨みもしなかったかもしれない」
「兄がそうだったというのかっ!」
せっかちな復讐者が、瞬に噛みついてくる。
瞬は、それも微笑で受け流した。
「それは、君のお兄さん当人にしかわからないことだよ。そうじゃなくて――僕が言いたいのは、氷河は 君に殺されても、さほど苦しまないっていうこと。むしろ、旧友の命を奪ったっていう罪悪感から解放されて、喜びさえするかもしれない」
「だから、俺は、俺が氷河に倒されても、俺の復讐は成ると言って――」

「でも、死んでしまったら、君は 氷河が苦しむ様を確かめることはできないでしょう? 氷河は案外、君のことなんか、すぐに忘れちゃうかもしれないよ。氷河は、これまで、地上の平和を脅かす者たちを数多く倒してきた。君は その一人にすぎない――君は氷河が倒した多くの邪悪の徒の仲間入りをするだけ。氷河が優しいのはね、地上世界の平和を妨げない善良な人たちに対してだけなの。そうじゃない者たちには、氷河は 驚くほど冷たくて、容赦がないよ。倒した敵に いちいち心を留めていたら、正義の味方なんて やっていられないもの。氷河が今、まだ君への攻撃に及んでいないのは、君がまだ無辜の人々の命を奪うことをしていないからだよ。もし 君が そんなことをしたら、氷河は すぐさま君を倒すし、そのことを悔やんだりもしない。たとえ悔やんでも、僕が氷河の心を慰める。アイザックの弟は、平和を脅かす邪悪の徒だった。氷河は何も悪いことをしていない――って。氷河は、僕の言葉を受け入れるよ」
「……」
瞬は詭弁を弄しているつもりはなく、それは事実だった。
イズマイルも、それは事実だと認めざるを得なかったのだろう。
事実でないにしても、そうなる可能性は非常に大きい――と。






【next】