イズマイルには、バルゴの瞬の目的が、アイザックの弟に無辜の人々を殺させないことだということが わかっているらしい。
そして、瞬の主張が正鵠を射たものだと認めざるを得ないことが、彼を一層 苛立たせ、追い詰めているようだった、
氷河の命を奪っても、氷河は苦しまない。
それ以前に、水瓶座の黄金聖闘士を倒すことは至難の技である。
アイザックの弟が 水瓶座の黄金聖闘士に倒されても、彼が“顔の無い者”の一員であるならば、氷河は 容赦なく暗殺者の命を奪い、それで悔いることもない。
かといって、暗殺者組織の一員になって無辜の人々の命を奪うようなことでもしなければ、氷河は彼を無視し続けるだろう――。
復讐の道を すべて塞がれ、為す術を失ってしまったイズマイルに、瞬は救いの手を差しのべた。

「それで、提案なんだけど」
「提案?」
「うん。氷河を本当に苦しめたかったら、氷河の大切な人を殺すのがいちばん有効だと、僕は思うんだ。それは、君自身、よくわかっているでしょう? 経験済みでしょう?」
「氷河の大切な者を殺す?」
「そう。それでね。多分、氷河が その死を最も悲しむのは、僕だと思うんだ。だから、僕を殺して。それで氷河を許してくれないかな」
「なにっ」
「だから、君の復讐のターゲットを僕に変えてって」

にこにこ笑いながら、この黄金聖闘士は何を言っているのか。
黄金聖闘士というものは、いったい何を考えているのか――。
イズマイルの混乱が、瞬には容易に見てとれた。
顔のある復讐者は、己れの感情や思考を隠すのが 恐ろしくヘタだった。

「ただし、僕にはアテナの聖闘士としての務めがあるから、むざむざ君に殺されたりはしない。もちろん、僕は君に殺されないように、抵抗するし反撃もする。そして、君は 氷河を苦しめるために努力する。黄金聖闘士相手なら、手加減せずに済んで、君も気が楽でしょう?」
「これは何の罠だ。あんたは、俺を嵌めようとしているのか」
罠も何もない。
すべては言葉通りなのだが、中途半端に頭のまわる人間は 扱いが難しい。
おそらく 彼は これまでに色々な場面で 自分の心を偽ってきたから――嘘をつき慣れているから――他人もそうであるに違いないと思ってしまうのだ。
悲しいことだと、瞬は 胸中で嘆息した。

「罠というわけじゃないけど……。君は僕より強くない。僕は余裕で君を撃退できる。君がターゲットを氷河から僕に変えてくれれば、氷河の身を案じる必要がなくなって、僕は安心できる。僕には いいこと尽くめなんだよ」
「俺がおまえより強くないだとっ」
「事実だ。僕はアテナの聖闘士。それも最高位の黄金聖闘士。君なんかに不覚を取ることがあるとは思えない」
イズマイルは、バルゴの瞬の戦いを その目で確かめたわけではないので、どうしても瞬の言を信じることができずにいるらしい。
バルゴの瞬が アクエリアスの氷河に 力で一段も二段も劣る戦士だと考えているのなら、彼が バルゴの瞬の言葉を罠と勘繰るのも致し方のないことなのかもしれない。
となれば、今の瞬にできることは、精一杯 彼を挑発することだった。

「殺せるものなら、殺してみせて。この僕を」
そう言って、イズマイルに にっこり微笑む。
短気な若者は、さすがに我慢がならなかったのか、北極光の力を帯びた凍気を 瞬の上に降り注ぎ――瞬は、イズマイルの攻撃を完璧に遮った。
彼に 自らの髪の毛1本 動かすことも許さなかった。
イズマイルが、その瞳を大きく見開く。

「もちろん、今すぐは無理だと思うから、もっと強くなってからでもいいよ。10年でも20年でも、僕は待ってあげる。僕は 君と違って気が長いんだ」
「10年だとっ」
彼を見ていると、誰かを思い出す。
それは誰だと、記憶の中に探しに行き、そこに 若かった頃の仲間たちの姿を見付け出して、瞬は 我知らず 唇をほころばせた。
「僕は信じていないけど、氷河は いつも、アイザックは自分より才能があって、本当は彼が白鳥座の聖闘士になるべきだったのだと言っていた。そんな人の弟なら、氷河より、僕より強くなれる可能性はあるよね? あくまで可能性にすぎないけど」
「なにお〜っ !! 」

若く未熟。元気で無鉄砲だった頃の星矢。
今は すっかり大人の振りをしている紫龍や氷河、兄にさえ、こんな表情を浮かべていた時代があった。
『可愛すぎるから、もうやめて』
その思いを声に出して言ってしまえないことが、瞬を苦しめる。
そんな瞬を見兼ねて、イズマイルを押しとどめてくれたのは水瓶座の黄金聖闘士だった。

「やめろ。返り討ちに会うだけだ」
「馬鹿にするなっ! いくら黄金聖闘士でも、こんな細い腕をした女の子に 俺が負けるなんてことがあるかっ」
「……」
瞬より先に、氷河の方が眉をひそめる。
『女』ならまだしも『女の子』とは。
知らないこととはいえ、ご丁寧に二重の意味で 乙女座の黄金聖闘士を侮ってみせるアイザックの弟に、氷河は内心で舌を巻いていた。
これが一般人のことなら、瞬も笑って許すだろうが、イズマイルは、完全な一般人とは言い難いところがある。
はたして 瞬は どう出るか。
ひやひやしながら、氷河は、瞬の出方を窺うことになったのである。
瞬には 悲しいほど慣れている誤認。
瞬の声音は、存外に落ち着いたものだった。

「僕を馬鹿にしているのは、君の方だと思うけど」
「なに」
「僕は、これでもれっきとした男だよ」
「は……?」
氷河は、その時 初めて、嘘も虚勢もない 素のイズマイルを見た。
敵意も害意も すべてを忘れたイズマイルが、ぽかんと 瞬の顔を視界に捉えている。

素直で正直なイズマイルの様子を見て――見せられて、瞬は拗ねた顔になった。
そして、なぜか氷河を睨んでくる。
「さすがは、氷河が認めた人の弟だけあるね。僕のプライドを ずたずたに傷付けてくれる」
イズマイルが真に“さすが”だったのは、
「そんな見え透いた嘘で、俺を煙に巻くつもりかっ」
と怒声を響かせ、あげく、
「黄金聖闘士を倒すことより、この街を破壊し尽くすことの方が容易というわけか!」
と叫んで、彼の兄の技に似た力を、氷河と瞬の背後にある街に向けて 叩きつけ始めたことの方だったかもしれない。
もちろん、その力は 氷河と瞬によって 完全に阻まれたのだが。

「弱いね」
瞬の声から感情と抑揚が消えたのは、瞬が少し立腹しているからである。
『地上の平和を脅かす者に、水瓶座の黄金聖闘士は驚くほど冷たく 容赦がない』という瞬の忠告を、イズマイルは無視してくれたのだ。
「でも、僕は優しい上に 酔狂だから――君の命は奪わないでおいてあげる。君が大した脅威になるとも思えないから。この場は退いて、おととい来てくれる?」
瞬の忠告を素直に聞き入れる耳と判断力を持っていないらしいイズマイルが、再び その指先から凍気を生み出そうとし、
「困った人だね」
瞬は、実体のない鎖でイズマイルの四肢を捉え、その身体を白い地面に やわらかく引きずり倒した。

「大地に頭を すりつけて、僕に謝ったら、許してあげる」
金色の鎖に動きを封じられたまま、イズマイルは やっと瞬の説得を聞き入れてくれたようだった。
「倒すぞ、必ず。バルゴの瞬」
瞬の説得を聞き入れて――彼は、彼の復讐のターゲットを アクエリアスの氷河からバルゴの瞬に変更してくれたらしい。
途端に 瞬は、その瞳と唇の上に微笑を取り戻し、イズマイルを自由にしてやったのである。
それを 瞬が与えた許しと気付いたのか、あるいは、瞬が見せた隙と思ったのか。
その一瞬後、アイザックの弟は、二人の黄金聖闘士の前から姿を消していた。






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