終電には まだ1時間は間のある時刻である。
駅から某電波塔に続く道からは外れているとはいえ、今の騒動を よく誰にも見られずに済んだものだと、氷河は安堵の息を洩らした。
瞬が来るのが もう少し遅れ、結界を張ってくれていなかったら、どんなことになっていたか わからない。
イズマイルは、瞬の鎖で動きを封じられる以前に既に 自分が瞬の手の内に囚われていたことにも 気付いていなかっただろう。

「氷河、傷付いた?」
瞬が、優しく問うてくる。
「ああ」
氷河は、正直に頷いた。
「かわいそうに」
瞬が、幻想でも小宇宙でもない、その両腕で 水瓶座の黄金聖闘士を抱きしめてくる。
イズマイルに“女の子の細い腕”と侮られていた瞬の腕。
氷河にとって それは、瞬の強大な小宇宙の百倍も強く温かく魅力的なものだった。

「おまえが悪者になる必要などなかったのに」
「一度やってみたかったの。『大地に頭を すりつけて、私を拝め』。乙女座の黄金聖闘士のお家芸らしいから。氷河は悪者になれないから――似合わない」
「おまえは もっと似合わん」
「そんなことないよ。氷河のためだもの。僕は 似合わないこともできるし、する」
「……」
強くなればなるほど、その力を増せば増すほど、優しくなっていく瞬。
瞬の強さ、瞬の力は、これからも際限なく――いつまでも、どこまでも――増し続けるだろうと確信できることが、時折 氷河を戸惑わせる。

「僕がアテナの聖闘士でなかったら、彼に倒されてあげてもよかったんだけど」
「駄目だ、それは。俺があれを倒さなければならなくなる」
瞬に抱きしめられているのは心地良いが、瞬の この華奢な身体は やはり恋人に抱きしめられるためにあるものだと思う。
「うん」
氷河に抱きしめられた その胸と腕の中で、瞬は小さく頷いた。
「大丈夫。僕は死なないよ。氷河のために。氷河を悲しませないために。これまでも いつだってそうだったでしょう?」
「信じてはいる……が、おまえは 時々、思いがけないところで甘くなるから」
「僕を そんなふうに子供扱いするのは、氷河だけだよ」
そう反論してから、瞬は、
「あ、みんなが そうかな……」
と、訂正を入れた。

『みんな』というのは、瞬の仲間たちのことである。
瞬の仲間たちは皆、バルゴの瞬の力の強大は 十二分に承知しているのだが、彼等は いまだに、その胸中のどこかに 幼かった頃の“泣き虫 瞬ちゃん”の面影を完全に払拭しきれず 残しているらしい。
瞬の兄は 言うに及ばず、あの星矢でさえ――仲間たちが昔の自分を忘れてくれないことに、瞬が不満を漏らすたびに『可愛かったんだから、仕方がないだろ』と 言い募る。

「うん。それは大丈夫なんだけど、彼をどうにかしないと……。顔の無い者のギルド、消滅してなかったのかな。それとも、やっぱり 消滅してるのかな……」
瞬が思案顔で、独り言のように呟く。
瞬が何を考えているのかは、氷河にも わかっていた。
中途半端に頭のまわるイズマイルが、消滅した組織を『消滅していない』と偽っている可能性を、瞬は考えているのだ。
それは あり得ないことではないと、氷河も思った。
あの組織が存続していることは、一種の はったりとして、十分に有効なものである。

「彼――イズマイルっていうんだっけ? 厄介だね。氷河の弱いところを的確に突いてくる」
溜め息混じりに 瞬に そう告げられ、今夜は 瞬の弱いところを的確に突いてやろうと、氷河は内心密かに思った。
恋人同士という関係は、こういう反撃ができるから楽しい。
そういう慰め方もしてもらえるから、氷河は瞬から離れられず、瞬を離したくなかった。






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