この若者は途轍もない馬鹿なのか、それとも 途轍もない大物なのか。
あるいは、これは 若さから来る無鉄砲なのか。
ドアを開け、店内をひと渡り見まわし、どうやら 店内に瞬がいないことを確認して がっかりしたらしいイズマイルの様子を見て、氷河は困惑したのである。
カウンター席、テーブル席、合わせて20席ほどの小さなバーには、善良な(事実、善良なのかどうかは知らないが、少なくとも人の命を奪うような行為には一生 縁がないと保証できる)市民の男女が十数人。
一人の客は一人で、連れのいる客は 連れと談笑しながら、様々な色のカクテルを飲んでいる。

その客たちに害を及ぼすつもりはないらしく、アイザックの弟は 存外 落ち着いた所作で、三つ空いていたカウンター席の一つ――いちばん端の席に腰を下ろした。
「瞬は」
と 問われ、胸中で「オトモダチではないんだから、『バルゴは』と訊け」と思う。
この男は、本気で復讐のターゲットを瞬に変えたのか。
もし そうなら、なぜ 瞬の自宅 もしくは 瞬の勤め先ではなく、この店に来るのか。
瞬なら、たとえ真昼間の病院を襲撃されても うまくあしらうだろうが(冥府の神の力を宿す刀を持つ暗殺者が襲来した時も、一般人の誰にも戦いがあったことを気付かせなかったと、瞬は言っていた)、学習能力があるのなら、“敵”も同じ轍を踏むことはないだろう。
何か 思いがけない方法で攻めてくるかもしれないと、氷河は それを案じていた。
いずれにしても、イズマイルは、瞬の勤め先に押しかけていって 瞬に攻撃を仕掛けるつもりはないらしい。

「ウオッカ。ストレートで。瞬は ここには来ないのか」
死ぬほど詰まらないオーダーと、殺してやろうかと思うほど図々しい質問。
そんなことを訊かれて、この店のバーテンダーが親切に答えを返してくると、この男は思っているのだろうか。
ウオッカの代わりにガソリンを出してやろうかという氷河の考えを阻止したのは、氷河のバーテンダーとしての誇りや義務感ではなく、
「瞬は 普段はどこにいるんだ?」
という、イズマイルの人を食った質問だった。

氷河は、“顔の無い者”がどのような組織だったのか、その詳細を知っているわけではない。
メンバー同士は完全に没交渉で、その全体像を把握しているのは、首領だけだったのかもしれない。
しかし、一度 仕事に失敗していたら、その仕儀を他メンバーに伝えておかないはずがない。
その作業を怠れば、他のメンバーも同じ失敗を繰り返すことになるのだ。
情報の共有は、“組織”の鉄則である。
が、イズマイルは、冥府の神の力を宿す刀を持つ暗殺者の失敗内容どころか、彼(?)が どこで その失敗を犯したのかということすら 知らされていないらしい。
否、おそらく 彼は、知らされていないのではなく、知らないのだ――知りようがない。
やはり“顔の無い者”の組織は消滅した。
でなければ、統率者を失ったことで、組織としての体裁を保つことができず、それは 形骸化しているのだろう。

瞬は、イズマイルが 消滅した組織を消滅していないと偽っている可能性を考えていたが、それは当たっていたらしい。
貴重な情報の提供者に感謝し、氷河は、秘蔵のディーヴァ・ウオッカをイズマイルに振舞ってやったのである。
何はともあれ、この若造は“顔の無い者”の正式なメンバーというわけではなく、まだ誰の命も奪ってはいない。
アクエリアスの氷河に“優しく”してもらえる権利を、彼は まだ有しているのだ。
出されたウオッカを一口 飲んで、イズマイルが目を丸くする。
それが美味いものだということは、彼にもわかるらしい。
素直な反応を見て、氷河は ついに 彼と口をきく気にさせられてしまった。
ごく低い声で、彼に告げる。

「ターゲットを変えないか。アイザックの復讐は、直接 俺に当たれ。瞬は強い。おまえには永遠に倒せない。おまえの目的は永遠に叶わない」
「貴様を倒して――そして、俺は 貴様を罪悪感から解放してやるのか」
美味い酒は 彼の舌をとろかすことはできても、彼の心までは解かすことができなかったらしい。
イズマイルの口調は、相変わらず 攻撃的――否、反抗的だった。
「おまえは あの仕事には向かない。おまえは、あの仕事がしたくて例のギルドに入ろうとしたのではなく、俺を倒す力を得ようとして、あのギルドに入ることを考えたんだろう? だが、それは無益だ」
「無益かどうかは、俺が決める! 俺があのギルドにいることで、貴様が嫌な思いをするのなら、それだけでも 俺には十分に有益だ!」
「声が大きい」

氷河に目配せをされて、イズマイルが口をつぐむ。
困ったことに、イズマイルは、(少なくとも、現時点では)アクエリアスの氷河に優しくしてもらう権利を有している――まだ、その資格を失っていない。
イズマイルの復讐の最高の形での成就は、彼の兄の命を奪った男の死ではなく、兄の仇が永遠に苦しみ続けること、永遠に 兄を忘れず、その罪を苦しみ続けることなのかもしれない。
「ターゲットは変えない」
そう言い残して、店を出ていったイズマイルが きっちり空にしていったショットグラスを見やりながら、氷河は そう思った。






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