イズマイルは、純粋に兄の仇を討つことを望んでいるのではないかもしれない――と、氷河は思うようになってきていた。

“大好きだった兄”を奪われた弟が、その仇を討ちたいと思う。
その時、“弟”を動かすものは、悲しみではなく、強い憎しみ、あるいは 激しい憤りだろう。
兄を殺した者への憎しみ。
兄が死ななければならなかった理不尽への憤り。
兄を失うことで不幸になった自分の境遇への憤り。
憎しみが復讐の原動力なのであれば、それは仇の命を奪うことで 消え去る。
憤りが原動力なのであれば、“仇”を復讐者と同じか それ以下の境遇に追いやることで相殺される。

イズマイルの復讐の原動力は 憎しみではない。
憎しみが原動力なのであれば、復讐のターゲットを瞬に変更することは考えられない。
憤りが原動力なのであれば、復讐のターゲット変更は あり得ないことではないが、その際、“弟”か気にするのは “兄の仇”の心情であり、代理でターゲットになった者の心情や言葉ではないだろう。
だが、イズマイルは、復讐のターゲットを瞬に変えて以降、本来の仇である氷河を ほとんど見なくなっていた。
氷河の店に来るたび、彼が気にするのは、瞬がいるか いないか。
瞬がいない時には、氷河によって供されるウオッカの味。
こんな復讐者がいるはずがないのだ。
もちろん、大抵の人間が、無愛想なバーテンダーと対峙することより、“瞬先生”と接することの方を好むことは、氷河とて よく知っていた。
瞬は 美しく聡明、何より優しい。
どんな人間をも 温かく やわらかく受け入れることのできる稀有な存在なのだから。

しかし、イズマイルは、瞬と接することを好みながら、今では 氷河より瞬の方を憎んでいるように見えるのだ。
それは、どう考えても おかしなことだった。



イズマイルを捕まえて、その真意を 問い質さなければならない。
氷河が そう考え始めるようになっていた頃、小さなトラブルが起きた。
小さなトラブルと言っても、それは 結果的にそうなったということだけのことで、一つ対応を間違えれば大惨事になっていたかもしれない危険なトラブルだった。

組織が組織のていを成さなくなったために行き場を失った“顔の無い者”の最後の残党が、いつまで経っても事を為そうとしない暗殺者志願の若造に 業を煮やし、ほとんど自らの死に場所を求めるような自暴自棄で、組織を壊滅に導いた者たちを消滅させるべく攻撃を仕掛けてきたのだ。
「役に立たん奴だ」
その顔のない化け物は、最初の攻撃を 彼の仲間志願であるイズマイルに向けてきた。
無論、その攻撃は、瞬によって たやすく防がれたのだが。
夜景目当てに 某電波塔に向かう人々と、お楽しみを済ませて駅に向かう人々が、道を行き交う時刻。
瞬は、すみやかに戦いの場を現実世界から切り離し、そこで 敵である化け物も消し去った。
暫時――その作業の遂行に、瞬は10秒以上の時間を費やさなかった。

「イズマイル、大丈夫? 怪我は――」
「なぜ、俺を助けた」
平和な街に戻って イズマイルが最初にしたことは、彼を気遣った瞬を責めることだった――彼は、彼の命の恩人に噛みついていった。
瞬が、しばし ためらってから、
「僕、氷河が悲しむのは嫌なの」
と答えたのは、イズマイルに負い目を負わせないためだったろう。
瞬が、彼の仲間を 兄の仇とつけ狙う男を助けた真の理由は、ただ“助けたかったから”なのだ。
イズマイルには、もしかしたら、真の理由の方が まだ受け入れやすいものだったかもしれない。
決して嘘ではない瞬の答えを聞いた途端、イズマイルの声は 激しい怒気を帯びたものになった。

「そんなに、この男が大事なのか!」
“この男”を無遠慮に指差して、イズマイルが瞬を怒鳴りつける。
その剣幕に驚いて、だが 静かに瞬はイズマイルに頷いた。
「うん」
「そんなに、この男が好きなのか!」
「うん」
「あんたが どんなに この男を好きでも、この男もそうだとは限らないだろう!」
「なに……?」

さすがに それは聞き捨てならず、氷河がイズマイルに一瞥を投げる。
イズマイルが、親兄弟すべての仇を見るような目を瞬に向けているのを認め、氷河は自身の行動に迷うことになってしまったのである。
瞬は、そんなイズマイルを無言で見詰めている。
言いたいことは多々あったのだが、結局は氷河も 瞬にならうことになった。
瞬は、イズマイルに、彼の真実を語らせようとしている。
ここは沈黙を守っていた方がいい――あとで瞬に叱られずに済む――ようだった。






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