それでも。
これは、常のこととは違う。
ここで二人が共に記憶の女神の許に赴かなければ――それは もしかしたら二人の生きる道を 永遠に分かつことになるかもしれないのだ。
いつもは瞬に折れる氷河も、今ばかりは 瞬のしなやかな強情に負けてしまうわけにはいかなかった。
だから氷河は もう一度、瞬を説得しようとしたのである。
そこに、
「氷河! 瞬! 来てくれ! 村の西側で野盗の群が暴れてる!」
と、氷河と瞬を呼びにきた一人の村人がいた。

「なぜ、こんな時に!」
氷河は、忌々しげに舌打ちをしてしまったのである。
自分でも、その忌々しさが、野盗のせいで生まれた感情なのか、二人を呼びにきた村人のせいで生まれた感情なのかが わからなかった。
百年に一度、記憶の女神が地上世界で目覚める神聖な時。
記憶の女神の力にすがるため、ギリシャ中の すべての町々村々から 多くの民がエレウテールの丘に向かっている今。
この時期は、山賊も海賊も 皆が大人しくしているのがギリシャの不文律になっていた。
賊たちの中にも、己れの罪を忘れ 人生を生き直すためにエレウテールの丘に向かう者は多くいるだろうから。
エレウテールの丘に向かう者たちの旅路の安全は保障されているはずだった。
少なくとも、百年前の この時季には そうだったはずなのだ。

聞けば、いずれかの町からエレウテールの丘に向かう途中の一団が、村外れに馬車を止め 休んでいたところに、野盗の群が襲いかかっていったらしい。
賊に襲われることなどあるはずがないと油断していた旅の一行は 半数以上が殺され、その後、襲撃に驚いて 村の中に逃げ込んできた馬を追って、野盗たちが村の中にまで雪崩れ込んできたのだそうだった。
野盗とはいえ――荒くれ者たちの集団だからこそ――彼等には彼等なりの規律というものがあるのだが、この襲撃は滅茶苦茶である。
無計画。効率も手際も悪い。
もしかしたら これは、野盗たちの頭領がエレウテールの丘に向かい、荒くれ者たちを統率する者がいなくなってしまったゆえの混乱狼藉なのかもしれなかった。
残された手下たちにしてみれば、それは頭領に見捨てられたも同然のこと。
野盗たちが自暴自棄になったとしても、さほど不思議なことではない。

「掟を破り、記憶の女神に救いを求めに向かう者たちを襲うとは、いったいどういうつもりだ!」
氷河の予想は当たっていたのかもしれない。
氷河が駆けつけた襲撃の場には、武器を手にした 若い者ばかりが十数人。
彼等は、揃いも揃って 手負いの獣のように目を血走らせ、揃いも揃って 親に見捨てられ途方に暮れている子供のように怯え、興奮していた。

彼等の一人が、氷河の怒声に 更に大きな声で怒鳴り返してくる。
「エレウテールの丘に行くなんて、そりゃあ、死ににいくようなものじゃねーか! 記憶の女神に すがる奴等はみんな、これまでの自分を殺しに行く奴等だ。ここで連れを殺されて悲しんでも、奴等は そんなことは すぐに忘れるんだ。エレウテールの丘に行く奴等は、誰にも執着してない薄情者ばかりだ。そんな奴等が、自分の命にだけは執着するなんて、そんなことがあるはずがねーだろ!」
「だとしても、殺していいわけがないよ!」

瞬が 大声で喚き立てている野盗を背後から取り押さえ、短剣をその喉元につきつける。
野盗は、瞬の顔を横目で見て、へらへらと笑った。
「これはこれは。ひょっとして、あんた、ペルセウスより強いアンドロメダ姫と評判のラリッサの瞬か? してみると、そっちの金髪男が、テセウスより冷酷なアポロン、氷河だ。自殺志願者たちを殺してやってる俺たちを責めるってことは、あんたらもエレウテールの丘に行くつもりでいるのか? 哀れな賊共を殺しまくった罪を なかったことにするために?」
瞬に自由を奪われ 喉に剣先を突きつけられているというのに 自棄に笑っている男は自殺志願者ではないのか。
――と、胸中で 氷河は思っていたのだが、どうやら そうではなかったらしい。
その耳許で、 瞬が、
「僕は行かないよ。決して忘れたくないことがあるから」
と囁くと、いきり立ち 目を血走らせていた野盗は、途端に大人しくなった。

「そうだろ? そうだよな? それが当たりまえの人間ってもんだ!」
とはいえ、それを“大人しくなった”と表していいものかどうか。
手負いの野良犬が、泣き叫ぶ人間の幼児に変わったところで、それを“大人しくなった”と言う者はいないだろう。
「エレウテールの丘に行けば、つらいことを忘れられるよ。あなた方が これまで してきたことも、すべて清算される」
瞬は、その道を選ぶことを非と考えているわけでも 悪と考えているわけでもないのだろう。
ただ 瞬自身は その道を選ばないというだけで。
瞬に そう告げられた野盗たちも。
これほど人間としての質が異なっているというのに、若い野盗たちが選んだのは、瞬同様、エレウテールの丘に背を向けることだった。






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