空は青く晴れ渡り、一片の雲もない。
風も吹いていない。
空の明るさに濃淡はなく、どこまでいっても同じ色。同じ明るさ。同じ輝き。
感情を伴う記憶を すべて忘れてしまった人間の心というものも、こんなものなのだろうか。
ただ一つの傷もなく、どこまでも爽やかに澄み渡り、どこまでも美しいのだろうか――。

その日の空は、そんなふうだった。
村の外れで、瞬に、
「さようなら、氷河」
と言われた途端、氷河の心の中では 重く不吉な灰色の雲が沸き起こり始め、それは ゆっくりと、だが確実に 氷河の心のすべてを埋め尽くしてしまったが。
『一緒に行こう』ではない。
『いってらっしゃい』でもない。
『さようなら』
それが、瞬が口にした送別の言葉だった。

「瞬……」
エレウテールの丘に向かうということは そういうことなのだと、氷河は 今になって気付いたのである。
記憶を消し去るということの意味を、自分は これまで どれほど真面目に考えていただろうかと、氷河は 今になって考え始めていた――疑い始めていた。
失われた命の価値と美しさにばかり思いを馳せ、失われた命ばかりを惜しみ、悔やみ、つらく悲しい思い出を忘れさえすれば、俺は幸せになれる、楽になれるのだと、これまでの自分は そればかりを考えていたような気がする。
つらかったこと、悲しかったこと、失われた命、守り切れなかった人たちのことを忘れてしまえば、その分 屈託なく、余計なことに煩わされることなく、瞬だけを見ていられるようになる。
そう 氷河は考えていたのだ。
その時 瞬が――瞬も――悲しい思い出を忘れ、明るく笑っていてくれたなら 言うことはない、と。

もちろん 氷河は、つらかった記憶を忘れて村に帰ってきた後も、これまで通り、瞬と共に生きていくつもりでいた。
余計なものが消えた心。
その隙間のすべてを瞬で埋め尽くすのだと。
そうすることで 自分は幸福になれるのだと、氷河は信じていた。
そのために 氷河は――万一のことを考えて、瞬の名を石版に書き記していた――瞬のことしか記していなかった。
誰よりも大切な人、自分が誰よりも愛する人、自分を誰よりも愛してくれる人。
文字では残している。
瞬の存在自体を忘れてしまうわけではないのだ。
つらく悲しい思い出を捨てて、この村に戻ってきた友に、瞬も優しく接してくれるはず。

余計なものを捨てに行くだけ。
それは、誰もが望むことなのだ。
「帰ってきたら、俺は もう おまえしか見ない。おまえだけ、おまえだけだ」
氷河の訴えに、瞬は、
「うん……そうだね……」
と やわらかい声で答え、優しく頷いた。






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