『行かないで』と、本当は言いたかった。 『今のまま、ここにいて』と訴え、本当は ここに引きとめたかった。 だが、瞬には そうすることはできなかったのである。 大好きだった母を失った時、大恩ある恩師を倒さなければならなかった時、氷河が どれほど深く悲しみ苦しんだかを、瞬は知っていたから。 その記憶が、どれほど氷河から明るさを奪い、どれほど 氷河を『自分は幸せになってはいけないのだ』という思いで縛りつけていたのかを知っていたから。 氷河が それらを忘れたいと思うのは、生きている人間――今となっては、彼のただ一人の人のためなのだということも、瞬は知っていた。 止められるわけがない。 氷河は、“瞬”のために、それをするのだ。 だが、瞬には わかっていた。 母のこと、師のこと――これまでに彼が出会った 悲しみ、苦しみ、つらかったこと――それらの記憶を 失ってしまった氷河は、もはや氷河ではないことを。 瞬が愛した氷河ではないし、“瞬”を愛してくれた氷河でもない。 それらの記憶を消し去ることで、氷河は おそらく、氷河を 氷河という人間にしていたもの すべてを忘れる――完全に別人の氷河になる。 そんな氷河を これまで通りに愛せる自信が、瞬には全くなかった。 嫌うこともないだろうが――自分が 記憶を失う前の氷河を求め 愛し続けることが、瞬には わかっていた。 あの野盗の男が言っていた通り、氷河は 今の彼を殺すために エレウテールの丘に行くのだ――否、行ってしまったのだ。 |