氷河の姿が見えなくなっても ずっと、瞬は 村外れに1本だけ立っているオリーブの木の横で、氷河が向かった西方の空を見詰めていた。
記憶の女神への祈りは、明日から始まる。
記憶の女神の力にすがろうとする者たちは もう ほとんどが、エレウテールの丘の麓に着いているのだろう。
昨日までは 西に向かう人々の姿が散見されていた草原に、今は人の姿は全く見えない。
他の村に比べれば少ないが、この村からも 氷河の他に幾人かがエレウテールの丘に向かって旅立った。
村に残っている者たちも、今日は皆 家の中で息をひそめている。
おかげで瞬は、人目を気にすることなく思い切り 自分の嘆きを嘆き、涙を流すことができたのである。

「僕の氷河が、つらいことを忘れて幸せになれるっていうのに、どうして涙が止まらないんだろ……。僕では、氷河の悲しみや つらさを癒してあげることができなかったから……?」
声に出して言ってしまうと、悲しみが増す。
瞬は唇を引き結び、首を左右に振った。
自分は、自分が氷河に忘れられることを悲しんでいるのだと思う。
それが自分のための悲しみなら――氷河のための悲しみでないのなら――自分は悲しむべきではないと、懸命に自身に言いきかせたのだが、それでも 瞬の涙は止まらなかった。

もちろん、望まぬ戦いは つらかった。
ある命を守るために 他の命を消し去らなければならないことを 正しいと信じることは困難で、いつも迷い、後悔ばかりしていた。
だが、どんなに つらくても、どんなに悲しくても、氷河がいてくれれば耐えられたのだ。
氷河と過ごしてきた時間、いつも氷河を好きでいたこと、氷河を好きで楽しかったことを忘れたくない。
感情を伴う記憶を失うことは、瞬にとって“氷河を失うこと”と同義だった。

人の人生は 誰のものも幸福だけではできていない。
一方に、楽しいことが100あっても、つらいこと1つのために、すべてを忘れたいと願う者がおり、もう一方に、つらいことや悲しいことが1000あっても、たった1つの大事なことのために すべてに耐えたいと考える人間がいる。
氷河は前者で、瞬は後者だった。
それだけのことなのだ。
そして、そのどちらを選んだ人間も、幸福になるために必死に足掻いていることに変わりはない。
「誰も間違ってない。大丈夫。僕は、明日からも これまでと同じように生きていく。それだけのことだよ。これまでと何も変わらない」

ただ氷河がいないだけで。
そう思った途端、また新しい涙が あふれてくる。
その涙を拭おうとした瞬は、自分の前に人影が一つあることに気付いた。
「ひょう……」
その名を最後まで言い終える前に、そうではないことに気付く。
それは 氷河より はるかに小柄で華奢な少女―― 一目で尋常の人間ではないとわかる佇まいをした一人の美しい少女だった。
長い純白の衣装は、布自体が光を帯びており、若々しい外見とは裏腹に、何千年の時を生きてきた者のそれのように厳しく温かい光が その瞳には宿っている。

「これからは一人で耐えていくの? 平和を守るために、平和を乱す者を倒さなければならない。つらいでしょうね」
「あ……」
神である。
この少女が神でなかったら 誰が神たり得るのかと、天に問いたくなるほど確実に。
だが、彼女が瞬に語りかけてくる声は 妙に気安く親しげで、そして、彼女は ひどく楽しそうだった。
楽しそうに、
「もっと つらい目に会うつもりはない?」
と、瞬に問うてくる。
「え」

それは、こんなふうに問うような質問なのだろうか。
それとも それは、質問の形をとっているだけで、事実は神からの人間に対する命令なのだろうか。
困惑し、その場で瞬きをした瞬は、その弾みで(?)女神の後ろに人間(のようだった)が二人 付き従っていることに気付いた。
まだ若い――瞬と さほど違わない年頃に見える少年たちである。
人懐こそうな明るい目をした短髪の少年と、真面目そうな顔つきをした長髪の少年(青年?)。
年少の短髪の少年が、女神の背後から、まるで女神の非礼(?)を詫びるかのように、右の手を ひらひらと振って 瞬に何やら合図を送ってくる。

「この村だけでなく、地上世界の平和を守るために戦い、もっと 苦しんでみる気にはならないかしらと訊いているの。あなたにならわかるでしょう? この地上世界から 人間が消し去るべきものは、争いの記憶や悲しい思い出ではなく、争いを生む原因そのものの方なのよ。つらかった記憶を消して楽になれても、それは一時的なもの。争いは、いくらでも新しく生まれてくるのだもの」
「あ……なたは、いったい……」
「聖域に――私の許にいらっしゃい。この村の者たちは、そろそろ あなたたちに守られてばかりいるのをやめ、自分で自分を守るための努力を始めた方がいいわ。私は基本的に人間の味方だけど、自分では いかなる傷も負わず、他者に守られることを当然と認識し、自らの弱さに あぐらをかいているような者を救ってやるほど 甘い女神ではない。瞬、なにより、あなた自身が――あなたへの愛を忘れた氷河に再会するのは つらいでしょう」
「……」

甘い女神ではないと言いながら、この女神は、もしかしたら“氷河”より“瞬”の気持ちをわかってくれているかもしれない。
自分は甘くないと言う女神の声と眼差しは、その言葉に反して 甘く優しく、そして すべてを包み込むように温かく大らかだった。
瞬の瞳から、涙の雫が一粒 頬に零れ落ちる。
「僕……僕の感情を伴った記憶は――僕の記憶は全部、小さな頃からずっと、全部 氷河に結びついているの。どんなに つらいことでも忘れたくなかった。それを忘れたら、僕が全部 消えちゃう……」
「ええ。ええ、そうね。かわいそうに」
「なのに、氷河は忘れちゃうの。氷河は僕を忘れてしまうの。僕では氷河を救えなかった。僕の力は、氷河を幸せにするには足りなかったの……」
「そんなに泣かないで。まあ、本当に 可愛らしいこと。でも、あなたには笑顔の方が似合うわよ。だから、もう泣かないで」

人間の涙などを見せて 神を不快にするわけにはいかないと考え、反射的に顔を伏せた瞬の肩を、少女の姿をした女神が抱き寄せる。
(え…… !? )
いくら優しく寛大な神でも、これは優しすぎ、寛大すぎるだろうと 慌てた瞬の耳に、
「アテナ。悪乗りしないでください」
という、神に自制を求める声と、
「紫龍。俺、すーごく やな予感がするんだけど」
という、ふざけ、怯え、震えているような声が届けられる。
神に自制を求める低い声が長髪の青年のもの、怯えているのが、もう一人の人懐こい目の少年のもの――のようだった。
長髪の青年が口にした女神の名に、瞬は仰天し――その名の あまりの高貴に仰天し――だが、瞬は、その驚きを 態度や言葉で示すことはできなかったのである。
“アテナ”という名だけでも、驚き混乱するには十分だったのに、そこに重ねて、瞬を驚かせ混乱させるものが出現してきたから。

それは、今 ここで聞こえるはずのない声だった。
その声を聞くことができたとしても、それは最低でも 10日の時間が過ぎてからのはず。
聞こえてこないはずの声が聞こえてくる。
その上、何を言っているのか わからない。
「瞬から離れろーっ !! 」
その声は、ほとんど獣の咆哮じみた声で、しかも その咆哮は どうやら 畏れ多くも オリュンポス12神の1柱、知恵と戦いの女神に向かって発せられた横柄かつ高圧的な命令だったのである。

「やっぱり……」
“やな予感”を的中させた少年が 絶望的な響きのぼやきを ぼやき、女神アテナは 人間の命令に(当然のことながら)逆らった。
「今になって、そんなことを よくも言えたものね。こんなに可愛らしい瞬を見捨てようとしたくせに。瞬は私がいただくわ」
「アテナ! だから、悪ふざけはやめろって!」
「ふざけるな! 瞬は俺のものだぞっ! いいから、とにかく、瞬から離れろっ」
「いやね。あなた、男のくせに、女の私に焼きもちを焼くの」
「貴様は女に見えんーっ!」
「あ……あ……」

氷河は いったい、自分が誰に向かって そんな口をきいているのかが わかっているのだろうか。
そして、アテナは 何を楽しそうに笑っているのか。
何がどうなっているのか、もう わからない。
恐くて、考えたくない。
ただ一つ、今の瞬にわかること。
それは、今 自分の瞳ににじんでいるのは悲しみの涙ではないということだけだった。






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