気が付くと、俺は そこにいた。 北方だろうと思ったのは、大地が純白で 寒かったから。 いや、寒いから、大地が純白なのか。 ともかく、俺の周囲は真っ白だった。雪と氷で。 もとい、“俺の周囲は純白”という表現は正確ではないだろう。 そこで白いのは、俺の足元に広がる大地と 遠くに見える山々だけで、空は灰色だったから。 つまり、世界の半分は白、残りの半分が灰色――と言うのが正しい。 季節は冬。 天気は曇り。 時刻は――太陽の位置が掴めないほど 雲が重く灰色なせいで、確実に言えるのは、今が夜ではないということくらい。 他に わかることはない。 辺りに人家はなく、人影もなく、獣の影すら見えない。 動いているのは、風と、風に弄ばれている雪と氷のかけらくらいのもの。 自分の重さと密度のせいで身動きできずにいるように、雲ですら 動いている気配を感じさせない。 そんな場所、そんな時刻。 「俺は誰だ」 「ここはどこだ」 「なぜ、俺はここにいる」 こういう場面での お決まりの台詞を、とりあえず 俺は口にしてみた。 側に答えを返してくれる者がいないことはわかっているのに、なぜ そんなことを いちいち声に出して言うのか――言ってしまうのか。 俺は、自分で自分の行動を訝った。 だが、声に出さずにいられなかったんだ。 何もかもが、あまりに奇妙すぎて。 自分が何者なのかがわからないことが奇妙。 俺が誰もいないところにいることが奇妙。 そして、俺が雪原にいることが奇妙――だ。 普通の人間は、自分が何者なのかを知っているものだろう。 最低でも名前くらいは。 だが、俺は俺の名を知らない。 これは奇妙なことだ。 人は、一人では生きていけないもの。 誰もいないところでは生きていけない。 だが、ここには俺以外の人間が存在していない。 これも奇妙だ。 雪原にいることを奇妙だと思ったのは、俺が つい最近まで雪のないところにいたような気がするから。 そして、もっと起伏のあるところにいたような気がするから。 そう。 俺は、自分が どこか高い場所から落ちた感覚を憶えていた。 自分の名も知らないのに。 だが、ここは平坦。 これが平らでなかったら 何が平らかと問いたくなるほどに真っ平らだ。 落ちたくても、落ちようがない。 俺は、じゃあ、空から落ちてきたのか? まさか、そんなことがあるわけがない。 気温は、氷点下10度前後といったところ。 寒さは あまりつらくないが、いつまでも ここでじっとしていたら、いずれ俺は凍死するだろう。 凍死しなくても、餓死する。 人家を――人間を探さなければ。 そう考えて、とりあえず 俺は南に向かって歩き始めたんだ。 磁石は持っていないし、太陽の位置もわからないのに、俺は どういうわけか、自分が南に向かっているという確信を持つことができていた。 地磁気を感じる能力でも備えているのか、俺は。 渡り鳥じゃあるまいし、そんなことがあるはずはないんだが。 ともかく 俺は、自分が南に向かっていると確信できていた。 四方に雪と氷以外のものは何も見えない平原で、南に向かおうが北に向かおうが 大差はなかったかもしれないが、それはまあ、気分の問題だ。 歩きながら、俺は多分 記憶を失っているんだろうと思った。 自分の名前も思い出せない男に、他の可能性は考えられない。 顔は確かめようもないが、自分の四肢を見る限り、俺は若い男だ。 生まれたばかりの赤ん坊だから 自分が何者なのかを知らない――ということは考えられない。 それにしても、その“自分の四肢”というのが問題だ。 季節は冬、周囲は雪、気温は氷点下という状況下で、俺は なんと 袖のない服を着ていた。 腕が剥き出しになっていたから、俺は、自分のそれが 若い男のものだということを確かめられたんだ。 プルオーバータイプの――そうだな、ルバシカから袖を取っ払ったような白い麻の上着に、黒のパンツ。 どう見ても、夏場の服装だ。 俺自身は あまり寒さを感じていないんだが、もし ここに俺以外の人間がいて 俺の姿を見たら、そいつは俺の恰好に寒気を覚えるだろう。 季節は確実に冬。 だというのに、なぜ俺は こんな恰好をしているんだ。 実に不可解だ。 夏のボヘミアから 冬のシシリアに飛んだように――まるで シェイクスピアの『冬物語』だな。 舞台が一瞬で変わったようだ。 やはり不可解。 自分が何者なのかも わからないのに、シェイクスピアは憶えているなんて、俺の頭はどうなっているんだ。 ――と、そんなことを考えながら、俺は半日も歩き続けただろうか。 日が暮れかけた頃、俺はやっと人の気配が感じられる場所に辿り着いた。 そこが 本当に人間の命のある場所なのかどうかは、かなり怪しいものだったが。 俺は相変わらず、何もない雪原の中にいたから。 そう。 何もない雪原に、大きな城館がひとつ、突然 現われたんだ。 俺は、深い森の中で お菓子の家を見付けたヘンゼルとグレーテル、安達ヶ原の鬼婆の岩屋を見付けた東光坊祐慶、青髭公の城にやってきたアリアーヌの気分になった。 城館の周囲に、集落はない。本当に、人家一つもない。 何もない雪原に、城だけが建っているんだ。 俺がいるのはシェイクスピアの『冬物語』の世界じゃなく、魔法や妖精が幅を利かせている『真夏の夜の夢』の世界だったんだろうか。 こんなところで、普通の人間が 普通の生活を営めるものだろうか。 それは なかなかの難題だ。 だが、その答えを求めて、いつまでも ぼんやり城館の前に立っていたら、俺が その答えに辿り着くより先に、夜が 雪原を黒く染めてしまうだろう。 俺は、魔法使いや鬼婆に食われることを覚悟して、その城館の中に入る以外、採るべき道がなかった。 |