『君が恋い焦がれている画家は、それが大公でも国王でも 自分以外の人間の感情を斟酌しない男だから、氷河が どれほど無愛想でも ぶっきらぼうでも気にしないことだ』
老侯爵から事前に知らされていた画家の情報は それだけだった。
その日 完成成った聖堂の主祭壇の前で、瞬がその人の上から視線を逸らすことができなかったのは、だから、その人の姿を見て すぐに 彼が あの天上のマリアを描いた画家だとわかったからではなかった。
ただ、その場にいた者たちの中で、否、フィレンツェ中で、否、瞬が これまでに出会ったすべての人間の中で、彼は際立って美しかったのだ。
侵し難い聖性をたたえた あのマリアを描いた画家なら、その上 日本の少年使節団ゆかりの人なら、イエスのような黒い髪、言葉の通じない異邦人のように控えめで落ち着いた様子の青年だろうと思っていたところに、明るい金髪の華やかな太陽神が登場したことに、瞬は面食らってしまったのだったかもしれない。

氷河を聖堂に連れてきたリヴォルノ侯爵が、仲介の労をとってくれた。
「瞬。こちらが 君の会いたがっていた氷河だ。氷河、こちらが、あの温かく優しいマリアを描いた画家。二人を引き会わせることができて、私は とても嬉しい」
老侯爵は、初めてのお使いを完璧に成し遂げた子供のように得意げ。
その隣りに立つ金髪の太陽神は、老侯爵とは対照的な仏頂面で 瞬を睨んでいる。
二人の対面の場に居合わせた他の者たちが皆 妙にざわつき そわそわしているのは、それがフィレンツェの二つの希望の光の初めての出会いの場だということに気付いたからか、レオナルドにも描き切れないような美貌の持ち主が二人も揃っていることに感嘆しているのか、あるいは、フィレンツェ有数の資産家が いったい何をしているのかと怪訝に思っているからなのか。
他人の感情を斟酌しない(らしい)氷河とは異なり、瞬は 自分以外の人間の気持ちや都合を斟酌してばかりいる人間だが、今は その目にも意識にも 周囲の人間の様子など全く入っていなかった。
息をすることも忘れ、氷河の瞳に まっすぐに見入る。

「こういう目をした人が、あんなふうに気高くて侵し難いマリアを お描きになるんですね……」
やがて 忘れていた呼吸を思い出し、独り言のような感嘆の言葉を溜め息と共に 口にする。
それが ほとんど独白になっていることに気付き、瞬は慌てて会話を編もうとした。
「僕、あなたが お描きになったマリアの絵に とても感動して……。あなたが描かれた絵を全部拝見しました。マリアもイエスもヨセフもモーセも どれも美しくて、圧倒されるようで……」
「……」
氷河は相変わらず無言で 瞬を睨んでいる。
それが悪魔の誘惑を退けようとする山上のイエスのようで、瞬は 心情的に後ずさりしてしまったのである。
物理的に そうせずに済んだのは、そんな振舞いは失礼だという考えが かろうじて瞬の四肢を制御しきったからだった。

「ですが、あなたは あなたがお描きになる絵より お美しいです」
「……」
またしても沈黙の答え。
そして、相変わらず 険しい目、眼差し。
少しの間を置いて、やっと氷河から返ってきた反応は、
「世辞にも褒め言葉になっていない」
という、ひどく不機嫌そうな声と言葉だった。
瞬は、決して 世辞を言ったつもりも褒めたつもりもなく、単に事実を口にしただけだったのだが、その事実は あくまで自分自身の主観が事実と認めた事実にすぎない。
瞬は 氷河に謝罪するしかなかった。

「す……すみません……」
謝罪して、身体を縮こまらせる。
そんな瞬を見て 更に不機嫌そうになり、結局 氷河は ついと横を向いてしまった。
冴えた輝きを放つ宝石のような目で睨まれているのも恐いが、不快そうに目を逸らされるのも恐い。
そして 瞬は、“恐い”以上に不安で心配だった。

「氷河さん……は、自分自身の美より 作品の美の方を認めてほしい方なんですね。僕、軽率と思われてしまったでしょうか……」
“瞬”に背を向け、瞬のマリアの前に移動してしまった氷河の背中を見詰め、瞬はリヴォルノ侯爵にすがることになったのである。
もし自分の軽率が 氷河の機嫌を損ねたのなら、瞬は彼に機嫌を直してほしかった。
彼の絵に感嘆している人間に好意を抱いてほしいとまでは望まないが、せめて 自分のせいで生じた不快を忘れてほしかったのである、瞬は。
瞬の不安と懸念に反して、リヴォルノ侯爵は 至って楽しげな様子をしていたが。

「君は愉快な考え方をするね。君に美しいと褒められたら、よほどの うぬぼれやではない限り、その人間は 君に馬鹿にされていると感じると思うが」
「は?」
「そういう普通の感性が 氷河にあったとは驚きだな。これは実に興味深い事象だ」
リヴォルノ侯爵が何を言っているのか、理解できない。
そして、瞬の不安と懸念は リヴォルノ侯爵の楽しそうな笑い声を聞いても全く消え去ることはなかった。



新聖堂に飾られる絵の内容が決まり、正式にトスカーナ大公から瞬の許に注文があったのは、その翌日のことだった。
当初は 聖母マリアと聖アンナを置く予定だった場所に、氷河と瞬がコンペティションに提出した天上のマリアと地上のマリアを置く。
その二人のマリアに続いて、これから 氷河と瞬とで、聖別の大天使ミカエルと癒しの大天使ラファエル、アダムとイブ、神の子イエスと洗礼者ヨハネ、使徒パウロと使徒ペテロ、聖ヒエロニムスと聖アウグスティヌスを それぞれ競作。
それが新聖堂の内陣の左右の壁を飾ることになる。
瞬が次に提出しなければならないのは、聖別の大天使ミカエル。
氷河には、癒しの大天使ラファエルの絵が発注されたということだった。

本音を言えば、注文が逆ではないのかと 瞬は思ったのだが、それを提案したのはリヴォルノ侯爵であるらしい。
瞬が侯爵に その意図を尋ねると、彼は『逆ではない』と自信満々の答えを返してきた、
注文主に異議を唱えることなどできるわけもなく、今ひとつ 得心できない気持ちを抱え、瞬は大天使ミカエルの制作に取りかかったのである。
納めるのは壁画ではなく等身大の板絵なので、氷河と瞬は それぞれの工房で、それぞれの絵を描くことになる。
瞬は、氷河の不機嫌が治まったのかどうかを確かめることもできぬまま、悪魔を討ち倒すミカエルの絵の制作に取りかかったのだった。






【next】