3ヶ月後、氷河が公開した“渇き倒れた旅人を渇きから救う癒しの天使ラファエル”は、フィレンツェ市民に歓呼と感嘆の溜め息をもって迎えられた。
それまで、峻厳と言っていいほど俗世を超越した聖性を その作品の第一の特色としていた氷河が、無限の優しさと慈愛をたたえた癒しの天使を見事に描き切った作品。
フィレンツェ市民は、氷河は新境地を開拓したのか、それとも これほどに温もりを感じさせる絵も描けることを 今まで隠していたのかと取り沙汰し、氷河の氷河らしからぬ優しい天使の絵を絶賛したのである。

瞬は、しかし、氷河のラファエルの絵に 妙な違和感を覚え、心から感動することができなかった。
否、心から感動したのだが、それだけでは済まなかったのだ。
「素晴らしいラファエルだと思うのですけれど……」
「おやおや。氷河の絵は いつもどれも大絶賛する君にしては珍しい」
リヴォルノ侯爵に からかうような口調で言われ、瞬は心許ない気分になった。
自分が感じている違和感の理由を、おそるおそる侯爵に訴えてみる。
「氷河のラファエルは……なんだか僕に似ているような気がするんです」
「氷河のラファエルが君に? ラファエルは癒しの大天使。君に似ていて おかしなことはあるまい」
「でも、天使は――マリアより神に近しい聖なる存在なのに……」
聖母より なお人間俗世を超越した聖性を たたえているべき天使が、氷河の描いたマリアより人間的。
瞬にはそれは おかしなことであるように思えたのである。
瞬の不安に曇る瞼を見やり、リヴォルノ侯爵が浅く頷く。

「確かに、あのラファエルは、これまでの氷河の絵とは雰囲気が違う。聖なるものの厳しさを欠いているというか……君のマリアに影響を受けたのかな。あるいは――」
「あるいは?」
「君自身に影響されたということもあり得る」
「まさか……」
リヴォルノ侯爵の推察を、瞬は一笑に付した――伏そうとした。
そんな瞬の小さな笑いを、
「氷河は、彼が描いたラファエルの出来に満足していないようだよ」
というリヴォルノ侯爵の言葉が凍りつかせる。
「え……」

氷河の描いた天使の絵に違和感を覚えながら、氷河が彼の描いた天使の絵の出来に満足していないらしいという話を聞いて がっかりする自分を、瞬は奇異に思わないわけにはいかなかったのである。
自分の意見と氷河の意見が一致したのだから、『やはりそうか』と納得すればいいだけのこと。
むしろ、二人の評価が一致したと喜び、安心してもいいこと。
にもかかわらず、自分に似ていると感じる絵に 氷河が満足していないという事実は、なぜか 瞬には落胆を誘うものだったのだ。

フィレンツェ市民が こぞって絶賛しているというのに、それを描いた画家が満足していない絵。
実は、それは、瞬のミカエルも同じだった。
氷河のラファエルに2日遅れて完成した、悪魔を退ける大天使ミカエルの絵。
甲冑を身に着け、神の剣として 勇ましく美しく戦う天使。
氷河のラファエルと対になる絵として遜色のない傑作と 皆は褒め讃えるのだが、瞬はそれを失敗作だと感じていたのである。

ミカエルを描く際、瞬の頭の中には氷河のイメージがあった。
だが、描き切れていないのだ。
氷河としても、天使としても、描き切れていない。
完成させた絵に ここまで喜びも満足も感じられないことは、瞬には初めての経験で、時を経ても 瞬の心は重く沈んでいくばかりだった。






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