沙織が『自分で考えなさい』と言うからには、それは神ならぬ身の人間にも “考えれば”わかることなのだろう。 だから、瞬は考えていたのである。 双魚宮から教皇宮に続く階段を上りきったところにある踊り場で、平和で静かな初秋の午後の十二宮を見下ろしながら。 人の魂は不変ではない。 生まれた時には白紙状態の人間の魂。 そこに美しく清らかな詩句が記されるか、醜く汚れた文言が記されるかは、おそらく その魂の持ち主次第。 何が記されるかを事前に知ることは、神にもできない。 もしかしたら、自分はパンドラに あのペンダントを与えられた時から 既にハーデスに操られていたのだろうか。 瞬は、そんな可能性までを考え始めていた。 それは あり得ない――と、瞬は すぐに考え直したのだが。 自分が 赤ん坊の時からハーデスの支配下にあったのなら、修行時代から ハーデスとの聖戦が勃発するまで、幾度も死にかけた自分を、ハーデスが放っておいたはずがない。 これまで幾度も死にかけた瞬を 聖戦勃発の あの日まで(そして、その後も)生かし続けてくれたのは、冥府の王ハーデスではなく、ハーデスの敵である女神アテナと 瞬の仲間たちだった。 では、なぜ。 一つの考えを捨て、瞬が 別の可能性の模索に取りかかった時。 ふいに聖域にあるはずのない音が 瞬の耳に飛び込んできたのである。 甲高い鳥の鳴き声にも似た、その音。 それは幼い子供の笑い声だった。 (え…… !? ) 思考はともかく 視覚は あまり活発に働かせていなかった瞬が、慌てて顔を上げ 周囲を見まわす。 そうして瞬は、暫時 ぽかんと呆けることになってしまったのだった。 いったい ここはどこなのか。 自分は どこにいるのか――。 そこは聖域ではなかった。 眼下に見えていた十二宮がない。 より正確に言うなら、十二宮が見えない――あるのか ないのか、わからない。 瞬は、2メートルほどの高さのある厚い石の塀に囲まれた場所にいて、その石の塀に視界を遮られていたのだ。 「ここは いったい……」 十二宮の平和な静けさの代わりに水の音が聞こえる。 水の音は、石の塀の向こうから聞こえてくる。 噴水等の人工のものではなく、波の音でもない。 おそらく、それは 川の流れ――かなり穏やかな川の流れが作り出す音だった。 その推察が正しいものであるかどうかを確かめるために、瞬は 石塀の上に飛びあがった(塀は 大人が5人並んで歩けるほどの幅があった)。 そうして 瞬は、自分が かなり幅広い川の中にある島の上にいることを知ったのである。 川の岸までは 相当の距離があり、両岸は豊かな緑で覆われていた。 ここはギリシャではない。 もちろん 日本でもない。 振り返ると、城があった。 それは中世ヨーロッパ風の石造りの城砦で、基本はロマネスク様式。部分的に ゴシック様式が混じっている。 武骨で堅固ではあるが、到底“華麗”と評することはできない城だった。 我ながら緊張感が足りない――と思わずにいられないような嘆息を一つ ついてから、瞬は 自分が現在 置かれている状況を整理する作業に取りかかったのである。 ここは、十中八九、西ヨーロッパのどこか。 広い川の中州の島に築かれた城である。 中州の島の大きさは、ざっと見たところ、幅80メートル 長さは400メートルほど。 城壁は その島の端 ぎりぎりの場所に築かれ、島全体を囲んでいる。 壁の中の3分の2ほどが城の建物で占められ、残りの3分の1ほどが庭になっていた。 中州の島から川岸までの距離を考えると、さきほど聞こえてきた子供の声は、この城の住人のものと考えて間違いはなさそうだった。 この城は、元々は砦として造られたのだろうが、後に改築され、今は 子供も暮らすことのできる城になっている。 だから、ロマネスク様式にゴシック様式が混じっているのだろう。 瞬が そう結論づけた時だった。 再び、あの甲高い鳥のような声が城壁内に響き、庭に植えられているマロニエの木の間から 一人の子供が飛び出てきたのは。 (え……?) アテナの聖闘士として戦う中で、これまで瞬は 様々なことを経験してきた。 異次元に飛ばされかけたこともあるし、過去に飛んだこともある。 今更 滅多なことでは驚かないつもりだったし、現に、数分前まで聖域にいた自分が いつのまにか見知らぬ場所に立っていたことに、瞬は さほど驚いてはいなかった。 その瞬を、頬から血の気が引くほど驚かせたもの。 それは、突然 瞬の視界の中に飛び込んできた子供の服装が、膝丈ほどの上着にタイツという、いかにも中世風のものだったことではなく、その子供――5、6歳の少年のようだった――の胸で輝いているものが あのペンダントだったこと――だった。 「殿下! そんなに早く駆けては危のうございます。転んで お怪我などしてしまったら、どうなさるのです!」 “殿下”を追いかけてきたのは、20代半ばの 少々 太り気味の女性。 濃い緑色の足まで長い筒状のワンピースを身に着けている。 それは どう見てもビザンツの影響を受け始めた中世ヨーロッパ女性の服装で、おそらく 彼女は“殿下”の世話係。 そして、彼女が口にした言葉は英語だった。 では、彼女が追いかけている子供は、イングランドの王子なのだろうか。 そんな人間が、なぜ ハーデスのペンダントを身につけているのか。 瞬の頬が蒼白になるのは致し方のないこと――むしろ、自然なことだったろう。 「またクロノスの仕業だ。あれは 最近アテナとつるんでいるようだな」 驚き、蒼白になり、だが、それ以外のことは何もできずにいた瞬の許に、聞き慣れた声が届けられる。 「氷河……」 一国の王子らしい見知らぬ子供がハーデスのペンダントを身につけていることに比べたら、それは驚くようなことでも何でもない。 突然 現われた仲間の姿に、瞬は驚くことをしなかった。 彼の登場を 当たりまえのことだとさえ、瞬は感じた。 氷河も、彼が ここにいることに動じている様子はない。 「おまえを過去に飛ばしたが、そこで おまえが悲しい思いをすることになるかもしれないから、ついていてやれと、沙織さんに言われてきた。何かあったのか」 まるで城戸邸の居室で『おはよう』を告げる時のように、氷河の声は落ち着いていた。 答える瞬の声は 動揺し、震え気味。 「あの子……この国の王子様らしいんだけど、ハーデスのペンダントをしているの。きっと 何不自由なく育てられている幸せな子供なんだろうに、そんな子が、もしかしたら ハーデスの……」 戦いなど知らぬげに、今はあんなにも幸せそうな幼い子供が、今から数年後には 人類の命運がかかった悲惨で苛酷な聖戦に巻き込まれることになるのだろうか。 不遇の孤児なら 戦いに巻き込まれても仕方がないと思っているわけではなかったが、“殿下”を見詰める瞬の眼差しは どうしても憐憫の色の濃いものにならざるを得なかった。 だが、今が“過去”だというのなら、未来から来た人間は“殿下”のために 何をすることもできない。 未来からやってきたアテナの聖闘士は、過去のハーデスの依り代に 何かをすることは許されない――のだ。 「これは クロノスの仕業なの? 今はいつ? ここはどこなの」 「この城は――どこかで見たことがあるな。俺たちの時代にも残っている城だ」 「僕たちの時代にもある城? あ、そういえば、どこかで見たことが――」 氷河にも何も説明せず、アテナは彼女の聖闘士を ここに飛ばしたらしい。 どうしてアテナは すること為すことが、いつも こんなに乱暴なのか。 もちろん アテナにはアテナの考えがあってのことなのだろうが――。 瞬が無理に そう思おうとした時、氷河が ここがどこなのかを思い出してくれた。 「シノン城――フランスのロワール渓谷にあるシノン城だ」 「シノン城? シノン城って、あのジャンヌ・ダルクが、シャルル7世と対面した?」 言われて、瞬は腑に落ちたのである。 見覚えのある城。 にもかかわらず、所在もいわくも思い出せない城。 それは自分の目で直接見たのではなく、書籍か 何らかの映像媒体で 画像データとして見たものだったのだ。 「ああ。もともとはガリア人の砦にすぎなかったものを、この規模の城にしたのは、イングランドのプランタジネット朝のヘンリー2世。13世紀初頭に増築されたクードレイの塔がないということは、今は12世紀後半と見ていいだろうな。この城がイングランド王家からフランス王家のものになったのは15世紀初頭のはずだから、ジャンヌ・ダルクが この城に来るのは、今から300年後だ」 「え? じゃあ、今は――」 では、今は聖戦が起きるタイミングではないということになる。 “殿下”が生きているうちに、聖戦は起こらない――のだ。 “殿下”は、その首に ハーデスのペンダントを掛けているというのに。 これはいったい どういうことなのだろう。 瞬には――おそらく氷河にも――その訳はわからなかった。 ただ一つ、彼等にわかったこと。 それは、アテナが彼女の聖闘士を この時代 この場所に運んだのは、聖戦が二百数十年に一度しか起こらない訳を、彼女の聖闘士たちに知らせようとしてのことなのだろうということ。 それは間違いなさそうだった。 |