「ジョン欠地王――いや、失地王だな。これから、あのガキは、兄の子供を排除して王位に就き、自分を可愛がってくれた父親を裏切って死に追いやり、戦と重税で国民を苦しめ、大陸の領地をすべて失い、誰からも憎まれ嫌われ軽蔑されて、失意のうちに死んでいくわけだ」
氷河も、どうやら瞬と同じことを考えていたらしい。
だが、だとしたら なおさら――瞬の混乱は大きく深くなるばかりだった。
保身と権力欲のために、肉親を裏切り、国民を苦しめる、イングランド史上最悪の暴君にして暗君と、ハーデスが あのペンダントを与えるほど清らかな魂の持ち主が、どうしても結びつかないのだ。

「あの子から、ハーデスのペンダントを取りあげたら、どうなるのかな」
「その必要はあるまい。この時代、聖戦は起こっていない」
「そうだね。でも、だったらどうして あのペンダントがあの子の手にあるの」
「――」
その答えは、氷河にも わからないらしい。
アテナが、自分で その答えに辿り着けと言って、彼女の聖闘士を過去に飛ばすほどの事案。
その答えに辿り着くのは、容易なことではないのかもしれなかった。
あるいは、それは 人間と人間の生きる世界を守護する女神アテナが口にしたくないと思うほど醜く卑しい“答え”なのだろうか。

瞬は、城壁の上から、少なくとも今はまだ純真で素直な目をしたジョン少年を見下ろした。
彼は、庭先で世話係の女性に上着を着せてもらっている。
「ねえ、アナベラ。神様の お使いがまた僕に会いに来たんだよ。今度は二人も。僕のこと、優しい子だって 褒めてくれたよ」
「まあ。神様の御使いが そんなに頻繁に お出ましになるなんて、殿下はとても神様に気に入られているんですわ。殿下が お優しい心の持ち主だから。きっと 殿下は とても立派な王様になることでしょう」
「神様が 僕を気に入っている? 僕は特別なの?」
ジョン少年が嬉しそうに 世話係の女性に尋ね、アナベラと呼ばれた女性は、ほとんど反射的に(ただの一瞬間も物を考えた様子を見せずに)大仰に頷いた。
そんな二人のやりとりを見て、氷河が不快げに眉根を寄せ、眉間に皺を刻む。

「ええ、きっと この国に素晴らしい繁栄をもたらす偉大な王様になるに違いありません」
「父上より?」
「神様の ご加護があるのですから、きっと」
「ふふ。そうなのかなあ」
ジョン少年は どこまでも無邪気である。
そして、氷河の眉間の皺は ますます深くなった。

「あの子、大丈夫なのかな。何か、僕たちにできることはないかな」
この時代に聖戦は起こらない。
しかし、ジョン少年の許には、彼がハーデスに選ばれた人間だということを示すペンダントが 確かにある。
もしかしたら これから、今は純真な あの少年に ハーデスのペンダントが、よくない影響を及ぼすのかもしれない。
だとしたら 瞬は、アテナの聖闘士として、ジョン少年をこのままにしておくことはできなかった。
もちろん 歴史を変えることは許されないのであるから、未来からやってきた人間が 彼のためにできることは限られているのだが。
それは 瞬にもわかっていたのだが。

心配顔の瞬に、氷河は ひどく不機嫌そうな声で、
「何もしなくていい。――かもしれん」
と答えてきた。
「どうして」
「あのガキは、おまえとは違う」
「え?」
「あのガキは、カミサマのオツカイとやらが 自分に会いに来たことや、仕える主人を持ち上げることしかしない使用人に 特別な王子だの何だのとおだてられて、慢心しているようだ」
「慢心って……相手は ほんの5、6歳の子供だよ。大人に褒められて、素直に喜んでるだけでしょう」
それは、あの年頃の子供としては 至って普通の反応だろう。
少なくとも、そんな子供を『慢心している』『清らかではない』と評するのは、ジャッジの基準が厳しすぎる。
そう、瞬は思った。
瞬の その考えを見透かしたように、氷河が少々 皮肉が勝った笑みを唇の端に浮かべる。

「神の使いとやらが、自分に会いにきた。優しい子だから褒美を与えると言って、ペンダントを与えられた。おまえなら、どうする? あの年頃だった頃のおまえなら、どう感じていたと思う?」
「え……?」
ジョン少年の年頃――自分は もう城戸邸に来ていただろうか。
それとも、兄と共に 教会の施設にいただろうか。
今の自分なら、まず間違いなく『受け取れません』と丁重に受け取りを拒否するだろうが、あの頃の自分なら――。
「僕より優しい人や立派な人は たくさんいるのに、なぜ僕なのかって戸惑っていた……かな? 『ご褒美なら、僕じゃなく兄さんにあげて』って言っていたかも」
「なぜ一輝だ」
まず 瞬の人選に不満を表明してから、氷河は おもむろに頷いた。

「そうだろう。おまえは、あのガキのように 自分は特別な人間なのだと思い上がったりはしない。“謙虚”と“清らか”は全く別のことだが、周囲を見ることのできない馬鹿な人間は、謙虚でいることも 清らかでいることもできない。人間が清らかであることと、無知無垢であることは違う。人間が清らかになり、清らかであり続けるためには、絶えず周囲から流れ込んでくる汚れを除去し 濾過する意思の強さと勤勉と頭のよさが必要だ。褒められたから 素直に喜んでいる? そんな普通のガキを、あのハーデスが好むものか」
よりにもよって瞬当人に、ありふれた“普通のガキ”と“瞬”を同列に語るようなことをされて、氷河は大いに機嫌を損ねているらしい。
まるで自分はハーデスの好みを完全に把握していると言うかのように 確信に満ちた氷河の強い語調に、瞬は 暫時 圧倒され、それから少々 長めの息を洩らした。

「氷河は、僕を買いかぶりすぎなんだよ」
「俺は事実を言っているだけだ。おまえは、自分が一輝より優れた王になると言われて、嬉しいか? あのガキのように、得意がって喜ぶか? 自信をもって断言するが、あのガキはハーデスの魂の器には なり得ん。もし本当に ハーデスが あのガキを自分の魂の器として選んだというのなら、この時代のハーデスは俺の知っているハーデスじゃない。きっとカーサの化けた偽物だ」
「もう……滅茶苦茶 言うんだから……」
自分自身のことには無頓着なくせに、自分の好きなものを貶められると すぐに向きになる氷河の性癖は、時に可愛らしく感じられることもあるが、それ以上に厄介である。
「でも、じゃあ、氷河が言うように、あの子がハーデスの依り代として不適切なら、なぜ あの子がハーデスのペンダントを持ってるの」

氷河の性癖に まともに付き合っていたら、やがて氷河は自分の好きなものを過剰に褒め始め、そして それが自分のものであることを確認したがり出す。
そんなことになったら、自分たちは、自分たちが この時代にやってきた本来の目的から大きく逸脱することになってしまう。
アンドロメダ座の聖闘士と白鳥座の聖闘士は、いつもと異なる環境でラブシーンを演じるために この時代にやってきたわけではないのだ。
その事実を氷河に思い出してもらうために、瞬が軌道修正を試みた時、瞬は ふいに原因不明の軽い目眩いに襲われた。






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