瞬が原因不明の目眩いと思ったものは、その目眩いが治まった途端、原因不明の目眩いではなくなっていた――原因が明白になっていた。
その目眩いが治まった瞬たちは、つい先刻までとは違う場所にいたのだ。
もとい、場所は同じだった。
ただ周囲の景色が一変しているだけで。
緑の葉を茂らせていた木々は、今は その鮮やかな衣装を脱ぎ、木枯らしの中で寒そうに震えている。
シノン城は、その庭も、城壁も、今は冬の中にあった。
クロノスが、また その力を使って、アテナの聖闘士たちのいる時間を変えたらしい。

「クロノスとアテナは 俺たちの動向を見張っているのか。せっかく 12世紀の世界遺産に飛んだんだから、記念のキスくらいしておきたかったのに」
あのまま、あの時間 あの場所にいたら そういうことになっていたと、氷河は ちゃんと自覚していたらしい。
あるいは そういう流れに持っていこうとしていたらしい。
今ひとつ真剣味の足りない氷河に、瞬は肩を落とし、嘆息を洩らすことになった。

ともあれ、今は いつなのかを確かめなければならない。
瞬は城壁の上から シノン城の庭を見下ろし、そして、自分が映画の冒頭によくあるエスタブリッシング・ショットの画面を見せられているような錯覚を覚えたのである。
いわゆる、状況設定を説明するためのショット。
そのショットを見ることができたおかげで、瞬は この物語が動き出す前に、おおよその状況を把握することができたのである。
「まだ12世紀後半みたいだよ、氷河」

“まだ12世紀後半”どころか――どうやら アテナの聖闘士たちは せいぜい半年ほどしか時間移動をしていないようだった。
庭の北側の木の陰に、瞬が見知っているジョン少年と ほぼ同じ姿をした彼がいる。
そして、城内から城壁塔に向かって歩いてくる二人の兵士。
エスタブリッシング・ショットの提示が終わると、ストーリーは動き始めた。

「昨日は大騒ぎだったな。神に贈られたペンダントが盗まれたとか騒ぎ出した王子のせいで、城中 総出で泥棒探し。結局 問題のペンダントは、鎖が切れて王子のベッドの下に落ちていただけ。自分は神に選ばれた特別な王子だと言い張って、いつも偉そうに俺たちを見下してるだけなら、まあ 王子様なんだから仕方がないとも思えるが、間抜けで粗忽、あげく家臣を泥棒と決めつけて、上を下への大騒ぎ。大した王子様だよ。だいいち、昨日の騒ぎの元のペンダント、神に贈られたペンダントだと言っていたが、神に授けられたペンダントの鎖が切れるなんて ありえないだろう」
「それは言わない お約束というもんだ。あれは、本当は 陛下が王子に与えたものなんだろう。あんな、取りえのないことが取りえみたいな子供に、本当に神が目をかけたりするものか」
「陛下の親心というやつか。凡庸な子供を持つと、親は大変だな」
「こっちは いい迷惑だ。本当なら 俺は、昨日は休暇をもらえてたはずなのに」

二人の兵士は、彼等のすぐ側にジョン王子がいることに気付いておらず、声をひそめることもしていない。
むしろ、昨日の騒動への不満を誰彼構わず ぶちまけたいという気持ちが働いているのか、わざと大きな声で話しているように、瞬には思えた。
兵たちの やりとりは、ジョン少年の耳に 確実に聞こえている。
さぞかし ジョン少年の心は傷付いているだろうと、瞬は胸を痛めた。
あのペンダントは、兵士たちの思う神とは 違う神であるにしても、神から与えられたものであることに違いはないというのに。
あまりに思い遣りを欠いた大人たちの勘繰りに、素直で純真なジョン少年は 泣き出してしまうのではないかと、城壁の上で瞬が案じた時。
思いがけない方向に物語は進展していった。

無責任な大人たちの流言飛語に傷付き 悲しみ打ちのめされてしまうのではないかと瞬が案じたジョン少年が動き出す。
彼は、瞬には不思議に思えるほど力強い足取りで兵士たちの方に歩み寄り、真正面で 彼等の行く手を遮った。
そして、彼は、“半年前”に瞬が聞いたジョン少年のそれと同じものだと思うのが難しいほど不遜な声音で、
「おまえたち。王宮を出ていくのと、鞭打ちの刑を受けるのとでは、どっちがいい!」
と、二人の兵に下問した。
「殿下……!」
突然 目の前に現れた噂の主の姿を見て、兵士たちの顔が強張る。
彼等は すぐに地面に膝をつき、ジョン王子に許しを乞い始めた。

「お……お許しくださいっ! 我等は、夕べ 一睡もさせてもらえなくて、つい――」
重苦しい灰色の空の下、冷たく静かな空気の中に響いた王子と兵士たちの声を聞きつけて、他の兵士たちが数名 その場に駆けつけてくる。
例の世話係の女性は、自分が世話をしている幼い子供の傍らで、その剣幕に怯えているようだった。
王子の声は、ますます容赦がなく、ヒステリックな響きを増していく。
「僕は、おまえたちの事情など訊いていない。鞭打ちと追放の どちらがいいか選べと言っているんだ!」

王子の姿を見る限りでは、どう考えても、王子とアテナの聖闘士たちの最初の時から 1年以上の月日は過ぎていない。
たった半年――つい半年前には 素直で純真だった子供の この変貌。
瞬には、信じられなかったのである。
いったいジョン少年の身の上に何が起きたのか――。
否。おそらく 何も起きなかったに違いない。
“半年前”に氷河が感じ取った通り、半年前には既にジョン少年の中に その兆しはあったのだ。

「で……では、鞭打ちを」
どちらかを選ばないと、王子の怒りは治まらない。
そう悟ったのだろう兵の一人が、鞭打ちの方を選択する。
「わかった。そこの兵、この二人を地下牢に連れていき、鞭を50 くれて、城から追い出せ」
「そんな……約束が……!」
王子の容赦のない命令に、二人の兵が絶望的な悲鳴をあげる。
しかし、王子は命令を覆さなかった。
「僕が、おまえたちに、いつどんな約束をしたというんだ! 僕は神に選ばれた王子だ。おまえたちと違って、何をしても許される特別な人間なんだ!」

『僕、その鳥がかわいそうだったから 鳥籠から逃がしてあげたんだ。そしたら、その夜、綺麗な女の人が来て、僕の優しくて清らかな魂へのご褒美だって言って、このペンダントをくれたんだよ』
『ねえ、アナベラ。神様の お使いがまた僕に会いに来たんだよ。今度は二人も。僕のこと、優しい子だって 褒めてくれたよ』
その優しさを褒めてもらえたと、無邪気に嬉しそうに笑っていた小さな子供。
だが、彼の目は、今は 嵐のあとの川の濁流のように濁っている。
彼は、今でも、自分を優しい人間だと思っているのだろうか。
瞬は、声も言葉も出てこなかった。

「ペンダントの鎖が切れたんじゃない。ペンダントそのものが消えかけているんだ」
氷河が、ジョン少年の胸許のペンダントを見ながら、低い声で告げる。
王子は気付いていないようだった。
その優しさ清らかさへの褒美として与えられたペンダントが、彼の胸許で消えかけていることに。
ハーデスのペンダントは、そういうものだったのだ。


「氷河……。この時代、聖戦は起こらないの」
何とか音にすることのできた かすれた声と言葉。
頬を青ざめさせている瞬の肩を、氷河が その胸に抱き寄せてくれた。
「ああ」
「ハーデスは あの子を 自分の魂の器としなかった。あの子は、これから 自分の意思にだけ従って、自分の人生を生きていく。それは 喜ぶべきことなんだろうね」
「そうだな」

喜んでいいことだと思うのに、どうしても微笑を作ることができない。
顔を俯かせた瞬に、氷河は何か慰撫の言葉をかけようとしたらしい。
だが、彼は 結局 瞬には何も言わなかった。
代わりに、虚空に向かって、
「アテナ。もうわかった。もういい」
と、抑揚のない声を発する。
次の瞬間、瞬は氷河と共に、十二宮と教皇宮を繋ぐ石段の踊り場に立っていた。






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