オタクの本懐






「アンドレアス・リーセと申します。アスガルドのワルハラ宮で、宮廷医師を務めております。よろしく お見知りおきください」
アンドレアス・リーセと名乗った その人物は、極めて礼儀正しい青年だった。
彼の前にいるのは全員が 彼より10歳は年下の子供ばかりだというのに 敬語で自己紹介をし、その上 彼は 綺麗に腰を30度 曲げる丁寧なお辞儀――いわゆる 敬礼――までしてくれたのだ。
礼儀正しい大人というものに あまり縁のなかった瞬は、彼の腰の低さに、かえって戸惑うことになったのである。

「ワルハラ宮? では、ポラリスのヒルダ――ヒルダさんの?」
「はい。ヒルダ様のご紹介で、アテナのお世話になることになりました。日本での滞在は4日ほどの予定なのですが、その間 よろしくお願いいたします」
やわらかな物腰、親しみやすい笑顔。
所作には品が感じられ、顔立ちも整っている。
長めの黒髪は、“金髪と灰色の瞳”という北欧系のイメージを裏切るものだが、背の高さと筋肉質な体躯は 紛う方なくノルディック人種のもの。
頭のよさを、思慮深げな瞳が無言で 対面する相手に知らせてくる。
海皇ポセイドンに支配されたヒルダに従う神闘士しか知らなかった瞬は、アスガルドに こういうタイプの人材がいたのかと、妙な感心の仕方をすることになった。

アスガルドからの客人は、温厚で礼儀正しい、見るからに良識人――である。
だから 瞬は、彼をアテナの聖闘士の許に連れてきた沙織が なぜか困り顔をしていることが奇異に思われて 首をかしげた。
そんな瞬に気付いた沙織が、小声で、だが密談にならないように(アンドレアスにも聞こえるように)、その訳を語り出す。
「彼は とても仕事熱心で、大変 有能なお医者様なんだそうだけど……」
「だけど?」
「つまり、何というか、その――クール・ジャパン的に……」
沙織が、常の彼女らしくなく 口ごもる。
「クール・ジャパン的に?」
瞬に二度の鸚鵡返しをされて、沙織は 意を決したように、その事実を口にした。
「要するに、彼はオタクだそうなの。それも かなり気合いの入った」
「は?」

まるで意味が わからない。
なぜワルハラ宮の宮廷医師たる人物が、オタクなどというものをしているのか。
瞬の認識では、オタクとは、“アニメーションや漫画等に熱狂的に興じる大人”だった。
ワルハラ宮にアニメーションのDVDや漫画本が転がっている光景など、瞬には想像できないものだったのである。
が、オタクがオタクに目覚める きっかけは、どこに潜んでいるか わからないもののようだった。

「きっかけは、医学研究用の日本製の人体模型だったらしいわ。関節稼動域の再現型分離骨格に脊髄神経の構造模型。その精巧な作りに感動して、彼は 日本の造形技術に興味を持ったのだとか。今回の来日の目的は、明日開催されるワンダーフェスティバルに参加すること」
「ワンダーフェスティバル? それは何ですか」
「略称ワンフェス。プロ、アマを問わず、自分が製作したキットを持ち寄って展示・販売し、自分の造形力を世に問うことを目的とするディープなオタクイベント――のようね」
「キットというのは……」
「この場合は、アニメや漫画に出てくるキャラクターや兵器、ロボット、現実に存在する動物や乗り物をスケールダウンして作った模型――ということみたい」

『らしいわ』『のだとか』『のようね』『ということみたい』。
ワルハラ宮の宮廷医師の来日には、沙織も 少なからず戸惑いを覚えているらしい。
沙織の説明は、いかにも 彼の来日に合わせて 付け焼刃で覚えた事柄を そのまま言葉にしたもの――だった。
しかしながら、グラード財団総帥である沙織が わざわざ調べて覚えたということは、彼女が そこに金の鉱脈が存在する可能性を感じたということ。
彼女は、
「広義のオタク市場は、その規模3兆円。侮り難い分野よ」
の一言を付け加えることを忘れなかった。
とはいえ、その一言に続いて発せられた、
「それでね、瞬。あなたに、そのワンフェス会場まで彼を案内していってほしいの」
には、たとえ それがアテナの命令であっても、瞬は快く頷くことができなかったのであるが。

「そ……そんなところ、僕、行ったことありません……!」
「でも、彼は来日は これが初めてなの。そういうイベントでは、普通の観光施設と違って、外国からの お客様には色々と不便なこともあるでしょう。それに、私は、ヒルダさんから、くれぐれも彼をよろしくと頼まれたのよ。決して 彼を一人にしないようにと」
「決して 一人にしないように?」
初めての日本とはいえ、成人し 頑健な体躯を持った若い男性である。
彼は子供でもなければ、障害者・病人でもない。
それを『決して 一人にしないように』とは。
彼はアスガルドにとって、それほど重要な人物なのだろうか。
だとしたら、たとえオタク世界という未知の領域にとびこむことになっても、彼の身の保全に努めることは、アテナの聖闘士が必ずや成し遂げなければならない重要な任務。
だから、瞬は覚悟を決めた――未知のオタク世界に足を踏み入れる決意をしたのである。
が。
なぜか、当の重要人物が その決意に水を差してきた。

「その お気持ちには 心から感謝いたします。ですが、アテナ。どうぞ、お気遣いなく。私は、日本の同志とメールで連絡を取り合っていますし、日本語もマスターしています。会場は混雑しますから、欲しいアイテムを手に入れるためにはフットワークの軽さが肝要。不慣れな連れがいると、かえって、その――」
「瞬は かえって 足手まといになる――ということかしら」
「決して そのようなことはございません。ですが、瞬さん……ですか。フィギュアにしたいほどの見事な造形。こんなに可愛らしい方がワンフェスの会場にいたら、フィギュアのモデルになってほしいという申し込みが殺到して、大変なことになるでしょう。それが イベント運営の支障になると判断された場合には、スタッフに会場からの退去を命じられることにもなりかねない。私は、そのような事態は 何としても避けたいのです」
どこまでも丁重な物言いだったが、要するに アンドレアスは、瞬を『邪魔だ』と言っていた。

「そんなところに 瞬を行かせられるか!」
と、それまで ほとんど口をきかずにいた氷河が、瞬を背後に庇うようにして、アンドレアスと瞬の間に立ちはだかる。
声音は険しいものだったが、氷河は どこかが いつもの彼と違っていた。
今ひとつ 迫力に欠けるというか、攻撃的でない。
その訳が、星矢には――紫龍にも――おぼろげながら わかるような気がしたのである。

氷河にとって、若い男は 8割方が敵である。
それが どこの誰であれ、若い男が 瞬を『可愛い』などと評したり、瞬に見とれたりしたら、その瞬間から、彼は 氷河にとって 問答無用で打ち倒さなければならない存在になる。
氷河がアンドレアスの登場から こっち、ずっと沈黙を保って 彼を睨んでいたのは、アンドレアス・リーセなる男を、敵である8割と 敵でない2割のどちらに分類すべきかを判断するために、氷河が彼を観察していたからだったろう。

ちなみに、氷河が 自分の敵ではないと見なす2割に分類される若い男というのは、まず、既に恋人がいて、その恋人以外の人間に特別な感情を抱かないことが確実な男。
次に、瞬を男子と見破り、ゆえに 瞬に興味を抱くべきではないと考える道徳的な男。
もしくは、道徳的でなくても、徹底した女好きで、瞬が男子であることを知った途端に 瞬を見なくなる男。
そもそも 美意識がおかしくて、瞬を『可愛い』『綺麗だ』と思わない男。
最初から瞬を高嶺の花と決めつけて、ヘタな期待を抱かない男。
あるいは、星矢や紫龍のように、 瞬に友情以外の感情を抱くと ろくなことにならないことを承知している事情通の男 等々。

氷河は、瞬に恋する男の直感で それが 瞬時に わかるらしいのだが、おそらく、氷河の恋する男の直感が アンドレアスに対しては いつものように働かず、それゆえ 氷河は その判断に迷っているのだ。
アンドレアスは、瞬を『可愛らしい』と思う美意識と判断力は持っているらしい。
だが、それが、生きている美少女(瞬は美少女ではないが)に向けられるものではないのだ。
たとえて言うなら、絵画や彫刻を美しいと感じる感覚――もとい、ここは やはり、“非常に出来のいい美少女フィギュアを評価する感覚”と言う方が適切かもしれない。
瞬を等身大美少女フィギュアを見るような目で見る若い男を、敵である8割と敵でない2割の どちらに分類すべきなのか。
氷河は、その判断が つきかねているのだ。

「はい。ですから、瞬さんの ご同行は不要です」
氷河の礼を欠いた態度に 気を悪くした様子も見せず、アンドレアスは どこまでも敬語、どこまでも低姿勢。
むしろ、氷河の態度に慌てたのは瞬の方だった。
「氷河。そんな喧嘩腰で失礼だよ」
「氷河。地上の平和を守るために存在する聖闘士が そんなことでどうするの。地上の平和のため、個人的な都合や感情は忘れて、ここは 国際親善に努めてちょうだい」
瞬と沙織は、一見した限りでは いつも通りの氷河の失礼な態度を、いつものことと考えているらしく、いつも通りに氷河を たしなめた。
氷河が眉間に深い皺を刻んで、どうにも合点のいかない顔を作る。

そんなふうに、いつも通りのようで いつも通りではない やりとりはあったが、ともあれ、客人の邪魔になっては本末転倒ということで、アテナは瞬への指示を撤回。
氷河も それで、一応 攻撃の矛を収めることになったのである。
アンドレアスは、どこまでも穏やかで にこやか。
彼は 常に 温厚な紳士然とした佇まいを堅持していた。
星矢には、そんなアンドレアスが、どこか浮世離れした、異世界の住人のように感じられてならなかったのである。
それは、紫龍も同様だったらしい。

「オタクって、みんな あんなふうなのか? かなりの二枚目なのに、勿体ない」
「だが、瞬を見て フィギュアのモデルにすることしか思いつかないような男なら、氷河の神経を逆撫でするようなこともしないだろう」
「初めてのパターンだよな。瞬を 可愛いって認識できる相手を、氷河が敵として認定しきれないなんて。オタクって、現実世界では心が木石になってて、生身の人間には 何にも感じないのかなあ……」
氷河が本気で怒らずにいるのなら、それは いいことだと思うのに、何か どこかが いつもと違う展開に、星矢は なぜか気持ちが落ち着かなかった。






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