ワルハラ宮の城下に広がる町の中心地から北に数キロ離れたところに、アンドレアスの屋敷はあった。
装飾より機能重視。飾りけのない、比較的 現代風の堅牢な建物。
それは、ホテルが倉庫を兼ね備えているような、珍妙な印象の屋敷だった。
ただ、とにかく、広さだけはある。
そして、瞬がいるはずなのに、その屋敷から瞬の小宇宙は全く感じられなかった。

どこかに――もしかしたら至るところに――監視カメラが設置されているらしい。
氷河が アンドレアスの屋敷の正面玄関の青銅製のドアに手をかけようとした途端、そのドアは内側から開けられた。
開けられたドアの向こうには、表情の全くない執事らしい男が立っていて、彼は、
「キグナス氷河様ですね。いらしたら、すぐにお通しするようにと、ご主人さまから ご指示をいただいております」
と、感情の感じられない声で 氷河に告げてきた。

おかげで氷河は 押し込み強盗のような真似をせずに済んだのだが、それは すなわち、怒りに任せて暴れ騒いでやろうと意気込んでやってきた人間が、その出鼻を挫かれたようなもの。
氷河は、落ち着けばいいのか、更に 怒りを募らせればいいのか、その対応に迷うことになってしまったのである。
まさかアテナの聖闘士が こんなに早く瞬奪還のために乗り込んでくるとは思わず、迎撃準備を整えていなかったゆえの懐柔策なのか、あるいは これはアンドレアスの仕掛けた狡猾な罠なのか。
ともかく油断はせずにいた方がよさそうだと自戒し、心身を緊張させながら、氷河はアンドレアスの屋敷の長い廊下を、執事の案内で 歩むことになったのである。

長い廊下の両側にある部屋のドアには、ホテルのルームナンバーを示すようなプレートが打ちつけられていた。 
「コレクションルームです。それぞれ、種類や年代別に、ご主人様のコレクションが整理展示されております」
尋ねもしないのに、執事が氷河に説明してくる。
彼は、貴族の家に仕える執事というより、ホテルのベルマン、もしくは 博物館の学芸員のようだった。

そのベルマンが、氷河のためにドアを開けたのは、長い廊下の突き当たりの部屋。
いかにも いわくありげな――青髭公の城でいうなら 彼の前妻たちの亡骸が隠されている秘密の部屋といっていいような部屋だった。
もっとも、氷河が通された その部屋は、陰鬱な死骸置き場ではなく、真夏の真昼の草原のように明るく眩しい光があふれた部屋だったが。
広い部屋の中には、もう一つの部屋――もとい、もう一軒の家――があった。
部屋の中央に、巨大な透明のドーム。
その中に、実物大の人形の家があったのだ。

ベッド、テーブル、椅子、チェスト、オーバル・ミラー、テーブル・ランプ等、置かれている家具は すべてヴィクトリア調。
少女趣味の極みだが、ヴィクトリア朝の英国でなら、一般的な住宅といっていい内装。
その一般的な家が、唯一 一般的でないのは、壁がすべて――外壁も内壁もすべて――透き通っていること。
だから、その家のどこに瞬がいるのかは、家の外にいる氷河にも すぐにわかったのである。

その家に似たようなものを、氷河は見たことがあった。
某国の、宇宙飛行士用の閉鎖環境適応訓練施設――宇宙での生活を疑似体験する装置。
透明のドームで閉じられた空間。
生活に必要なものは すべて揃っている研究施設。
閉鎖空間内の住人のデータを取るため、ドーム内での異変を外部の観察者が見逃すことがないよう、透き通ったドームの中にいるものの様子は 外から丸見え。
そういう施設に酷似した閉鎖空間に、瞬は閉じ込められていた。

「瞬!」
「氷河……!」
音は、ドーム内部にも聞こえるらしい。
氷河が瞬の名を呼ぶと、瞬は すぐに氷河の許に駆け寄ってきた。
透き通ったドームの壁は、二人が触れ合うことを許してくれなかったが。

苛立つ氷河の背後から聞こえてきたのは、言わずと知れた オタクで親日派な誘拐犯の声である。
「予定より、早い ご到着だ。ようこそ、キグナス氷河くん」
この悪趣味な施設の責任者に歓迎の辞を告げられて、氷河は、すべてがアンドレアスの仕組んだ企みだったことを知ったのである。
白鳥座の聖闘士を すんなりと この屋敷に招じ入れたことだけでなく、そもそも 電波の届くところで瞬の携帯電話の電源を入れたことが、瞬を餌にして氷河を この地におびき寄せるための罠だったのだ。

「きっさまーっ!」
ただちにオーロラエクスキューションの構えに入った氷河を、
「氷河、だめっ!」
ドームの中の瞬が制止してくる。
このドームの内と外の音は、直接 人の耳に聞こえているのではなく、透明なドームの内と外にマイクがセットされていて、そのマイクによって通じ合っているもののようだった。
問答無用でアンドレアスを倒そうとしていた氷河の手が止まる。
ここでアンドレアスを倒してしまうと何らかの不都合が生じるのだと、瞬の声の響きで、氷河は察した。
考えてみれば、アテナの聖闘士である瞬が、こんなところに大人しく閉じ込められていること自体が奇異である。

「瞬。この程度のドーム、なぜ 割って出てこないんだ! おまえなら、聖衣なしでも、これくらいのガラスは――」
「割れないの。これ、普通のガラスじゃないんだよ!」
「割れない? そんな馬鹿な」
普通のガラスでなくても――防弾ガラスや強化ガラス、あるいは、透明アルミニウム、炭素シート、メタルフォーム、ダイヤモンド――それが何であっても、聖闘士に割れないものなどないはずである。
聖闘士の力をもってしても破壊できない透明ドーム。
その強固の理由を氷河に教えてくれたのは、オタクな拉致監禁犯 その人だった。

「このドームには、オタクの神ロキの結界が張られているのだ」
「オタクの神? そんなものがアスガルドにいるのか」
そんなことを 真顔で問い返す自分が、空前にして絶後の間抜けに思える。
アスガルドにもギリシャにも、オタクの神などというものが存在するはずがないのだ。

「オタクの神というのは正確ではないが……。その名の意味は“閉ざす者”。オーディーンの槍グングニル、トールの槌ミョルニル、フレイの船スキーズブラズニル、黄金を生み出す腕輪ドラウプニル、スルトの妻シンモラの剣レーヴァテイン――各種アイテムを作ったり 作らせたりした、造形芸術の守護神といったところだな、我が神ロキは」
「造形芸術の守護神だとっ」
「そうだ。そのロキの加護を受けている私を倒せば、このドームが外界に開かれることは永遠になくなる。このドームは、なにしろ“閉ざす者”の結界が張られた、特別製のコレクションルームなのだ」
「なんだとぉ !? 」
だから 瞬は、氷河の攻撃を止めたらしい。
ほとんど泣き声で、瞬は、アンドレアスの異常な振舞いを氷河に訴えてきた。

「氷河。この人、変だよ。お……男の娘の――僕の生態記録をつけるとか、そんなことを言って……。このドーム、24時間 監視カメラが作動してるの。それで、ぼ……僕がお風呂に入ろうとすると 見物にやってきて……僕、もうやだっ」
「み……見られたのか」
「タオルを身体に巻いて、何とか やりすごしたけど……」
「アンドロメダ座の聖闘士の防御は鉄壁。噂には聞いていたが、ただの男の娘ではないところが実にいい。まあ、そのうち、タオルも衣類も奪い取って、生まれたままの姿で生活してもらうことにするつもりでいるが」
オタクな親日派は、心の底から、本物の男の娘という貴重なアイテム入手を喜んでいるらしい。
明るく楽しそうに笑うアンドレアスを、涙のにじんだ瞳で見やり、
「氷河、助けて……っ!」
瞬は、悲鳴をあげた。

これまで どんな苛酷な試練も苦難も乗り越えてきた瞬に、これほど悲痛な泣きごとを言わせるとは、アンドレアスは ただ者ではない。
しかし、氷河とて、瞬と共に 幾多の試練と苦難を乗り越えてきた歴戦の勇士。
彼の辞書に“諦め”という単語は載っていなかった。
“まともなバトル”という熟語も載っていなかったが。
「瞬を ここから出せっ。結界を破れないなら、代わりに俺は この屋敷全体を ぶっ壊すぞ。それでもいいのか!」
アンドレアスのコレクションは結界の外にある。
いうなれば、氷河は、アンドレアスのコレクションという人質を手にしていたのだ。
氷河の脅迫に、アンドレアスは やっと(?)慌て始めた。

「それは 困る。ここには 私の大切なコレクションが――」
「ならば、開けろっ」
「せっかく手に入れた、極上の 特別製の男の娘なのに……」
いかに“せっかく手に入れた、極上の 特別製の男の娘”でも、それは、これまで多くの時間と金と手間をかけて収集してきたオタクコレクションと引き換えにできるものではなかったらしい。
口の中で ぶつぶつ文句を呟いて、アンドレアスが、透き通ったドームの壁に手で触れる。
すると、そこに 人間が一人 やっと通ることができるほど隙間が生じた。
「まったく……。瞬くん、君の恋人は実に乱暴な男だね」
そんなことを言いながら、アンドレアスがドームの中に入っていこうとする。
「瞬!」
瞬を人質に取られてはまずいと思い、氷河はアンドレアスを押しのけて、先にドームの中に飛び込んだ。――のが、まずかった。






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