全国の有名百貨店で お歳暮商戦が始まった。 そんなことが ゴールデンタイムのニュース番組のトップにくるほど、日本は平和だった。 企業活動のコンプライアンス確保、虚礼廃止の風潮、個人情報保護法の施行。 それらの社会的要因によって、最近の日本では 中元や歳暮等、季節の贈答品のやり取りは減少傾向。 グラード財団でも、外部の企業や団体からの贈答品の受け取りは遠慮し、財団の構成員同士の贈答品のやりとりを禁止している。 グラード財団総帥である沙織は、昨今は私的な贈答品も遠慮するようにしていた。 それでも、城戸邸には 中元シーズン歳暮シーズンには たくさんの品が届く。 贈り主たちは、グラード財団総帥がワインやハムをもらって喜ぶと本気で思っているのだろうかと、星矢は常々 不思議に思っていた。 城戸邸に届く季節の贈り物が減らない真の理由を 星矢が知ったのは、今年の夏。 その年の最初のお中元を積んだ某百貨店の配送トラックが城戸邸にやってきた、7月中旬のことだった。 それから 3ヶ月。 早くも 世間では お歳暮商戦が始まった。 「もう そんな時季なんだ。時間が過ぎるのって早いなー」 星矢が そんな年寄りじみた ぼやきをぼやいたのは、また瞬が忙しくなる季節がやってきたということを、彼が今では知っているからだった。 「そうなの。それで、私から瞬にプレゼント。特別に選別された羊毛と馬の尻尾の毛、イタチの毛、山羊の毛、そして白鳥の毛を縒り混ぜて梳いて作られた最高級品よ。値段の問題でないことは わかっているけど、値段は50万円。熊野筆の里で いちばんの伝統工芸士の手になるもの。瞬の気に入るといいんだけど」 沙織が そう言いながら、1本の細い書筆を瞬に差し出す。 沙織から瞬へのプレゼントを見て、星矢は思い切り 目を剥いた。 「ご……50万ーっ !? そ……それって、肉まん5000個分じゃん! なんで そんなにするんだよ! 俺、それと まるっきりおんなじのを、ポテチ買いにいった100円ショップで見たことあるぞ!」 見た目が同じ、できる仕事も同じ。 にもかかわらず、値段が5000倍。もしくは、5000分の1。 100円の玩具の指輪も 50万円の指輪も同じ装身具――という認識の星矢には、それは どうにも得心のいかないことだった。 沙織は、そんな星矢の価値観を承知している。 沙織が 星矢の雄叫びに 気を悪くした様子を見せなかったのは、彼女が 決して その価値感を誤りだと思ってはいないからだったろう。 沙織は ただ、100円ショップで買えるようなものを 瞬に贈るようなことをしたくなかっただけだったのだ。 「瞬の書く字には それだけの価値があるのよ。瞬が これで、色紙を10枚も書いてくれれば、すぐに元は取れるわ。もちろん、瞬にそんなことをさせるつもりはないけど」 「色紙10枚で元が取れるって、色紙1枚に5万円も出す物好きがいるってことかよ!」 沙織とは対照的に、星矢の口調が非難の響きを帯びているのは、決して、色紙1枚に それだけの対価を払う人間の存在を許せないからではない。 星矢は ひとえに、色紙1枚と 肉まん500個を同価値だと思いたくないだけだった。 「んでもさ、『弘法筆を選ばず』って言うじゃん。100円の筆を使えとは言わないけど、いくら何でも50万円は高すぎなんじゃないか」 「そうね。でも、『良工は まず その刀を利くす。能書は必ず好筆を用いる』と、当の弘法大師自身が言っているわ。いい仕事をする人は、いい道具を使うものなのよ」 沙織に口で勝とうとしたのが無謀だったと、星矢は すぐに大悟した。 『筆1本 = 肉まん5000個』『色紙1枚 = 肉まん500個』という方程式だけは、どうあっても 星矢には受け入れ難いことだったが。 ことの起こりは、3年前の中元シーズン――だったらしい。 その頃は、沙織もまだ、友人知人や 世話になった人たちに季節の贈答品を贈ることを 毎シーズンの習慣にしていた。 中元や歳暮には、熨斗をつける。 熨斗の表書きには 当然 “城戸沙織”の名を入れ、沙織は 更に季節の挨拶や礼を記した一筆箋を 品物に同梱していた。 その一筆箋を、沙織は 文章だけは自分で考え、毛筆ソフトで和紙に印字という方法をとっていたのだが、その毛筆ソフトが OSのバージョンアップで使えなくなったため、彼女は 何気なく 瞬に代筆を頼んだ。 その際、それまで気に入って使っていた毛筆ソフトの文字より、瞬の書く文字の方が 好みだったので、それ以降、沙織は贈答品の熨斗の名入れや挨拶状の代筆を瞬に頼むようになったのである。 しかし、昨年、世間で悪質な贈賄事件が取沙汰され、痛くもない腹を探られる可能性のあることは避けた方が無難と考えた沙織は 季節の贈答品を一切 やめることにした。 が、それまで定期的に贈っていたものを突然 中断すると、先方に疑心暗鬼を生むことにもなりかねない。 そこで、沙織は、年賀欠礼ハガキならぬ歳暮欠礼ハガキを各方面に送付。 その知らせを受け取った相手から、品物はタオル一枚でいいので季節の贈答品のやりとりはやめないでほしいという申し入れが複数あったのだ。 グラード財団総帥が私的に季節の贈答品を贈るほどの人物たちである。 沙織に そんな申し入れをしてきたのは、いわゆる超富裕層に属し、欲しいものは自分で手に入れられる力を持った人物ばかり。 奇異に思って理由を尋ねたところ、彼等からは、なんと、『贈答品に添えられている一筆箋の文字が気に入っているから』という答えが返ってきた。 中には、その一筆箋だけでなく 熨斗紙も一緒に ずっと保管しているという、梨園の重鎮までいたのである。 「皆さん、瞬の書く文字を、優しくて温かくて清らかな文字だと大絶賛。さすがはグラード財団総帥、熨斗の表書きや挨拶状にまで 心憎いまでの気配りができていると感心してらして……。いったいどこの書家の手になるものか教えてほしいと おっしゃる方もいらしたのよ」 書家に頼んだのではなく、家の者に書かせたと 事実を伝えたところ、某シティホテルのオーナー経営者が、今度は いきなり『その方をご紹介ください』と、沙織に依頼してきた。 まもなく還暦を迎えるというオーナー当人は 数年前に細君を亡くして 現在は独り身、後継ぎの一人息子は30前で未婚。 あの文字を書いた人が30歳以下なら息子の嫁に、それより歳を重ねているなら 自分の妻にと申し出てきたのだ。 『奇をてらわず、優しい文字。その文字を見ただけで、あの挨拶状を書かれた方が 美しく優しい心の持ち主だと わかりました』とは、その御仁の弁。 瞬の書く文字には そんな いわくがあった。 「その爺さん、瞬を女だって信じてたのかよ?」 「今時、還暦を迎えたばかりの男性を、爺さん呼ばわりは失礼よ。実際、中年で通るくらい お若い方だし。あの挨拶状を書いたのは 10代の男の子だと言ったら、到底 信じられないとおっしゃって、目を丸くしてらしたわ」 昨今は、ありとあらゆるものがプリンター印字になり、人は――特に成人した社会人は――滅多に 手書きの文字に接することがない。 個人あての手紙も印字されたもの。そもそも手紙を書く機会がなくなり、情報伝達は 電子メールやSNS等のシステムによって行われるようになっている。 紙に印字する際のフォントも、ありふれた明朝体やゴシック体だけでなく、毛筆体や手書き風のものも出回っているので、誰も手書きの文字を書かなくなってしまったのだ。 「でもねえ、瞬の書く文字を気に入っている方々は 、皆さん、口を揃えて、プリンターで印刷された文字は、心のない字だとおっしゃるの。熨斗の表書きに書く名前ひとつだけでも、文字というものは心で書くものだと」 「文字は心で書くもの――ねえ。んなこと言ってる おっさんたちは、意味なく馬鹿高い万年筆で、書類に自分の名前をサインするんだろ。もちろん 本文は機械で印刷されてる書類」 心で書くなら、肉まん1個より安い鉛筆で書いてもいいはずだというのが、星矢の主張なのだろう。 沙織は、苦笑で 星矢の言を受け流した。 「瞬が書く文字には、どうしても印刷では表現しきれない何かがあるのでしょうね。文字の形だけの問題ではないようよ。フランスでは、美しいフランス語を話せることが最大の持参金と言われていた時代もあったし、表意文字や表形文字を用いている国で、美しい文字を書ける人間が尊ばれるのは不思議なことでも何でもないでしょう」 意味なく馬鹿高い万年筆は、他者に信用されるための道具。 沙織が 瞬のために手に入れてきた書筆は、優しい文字が表わす瞬の“心”への敬意を形にしたもの。 同じように高価な筆記具でも、その二者は、存在意義が全く異なっているのだ。 そのあたりのことは星矢も わかっているらしく、彼は 肉まん5000個分と同等の筆の件には それ以上は言及しなかった。 代わりに、瞬に、別の疑念を投げかける。 「瞬、なんで、おまえ、そんなに字が上手いんだよ」 「上手いのではなく、優しいのだそうよ」 星矢の問い掛けに、沙織から訂正が入る。 「あ……あの……」 問われた瞬は、氷河をちらりと見てから、首を横に振った。 「に……日本に帰ってきてから、日本語の書き方を忘れてることに気付いて、慌てて練習したんだ。僕、子供の頃は、ミミズがダンスしてるような字を書いてたし」 「そうだったかなー」 星矢が、幼かった頃の瞬の文字を思い出そうとして 眉間に皺を寄せる。 その様を見た瞬は、少しく慌てた様子で、そして 不自然に大きな声で、 「沙織さん、そんなことより、熨斗に書く ご芳名のリストと ご挨拶状の文案をください。いつまでに書けばいいですか」 と、沙織に指示を求めた。 「急がないわ。お品を贈るのは12月に入ってからだから。ただ、申し訳ないけど、夏より数が増えているのよ。あなたを奥様に し損ねた大御所が、照れ隠しなのか何なのか、そのことを あちこちで笑い話として 吹聴してまわったようなの。噂を聞きつけて、あなたの字を見たいという人が増えてしまって」 そう言いながら、沙織が瞬に手渡したリストに記された名前の数は30ほど。 もちろん、そのリストは“心のない”文字で記されたものだった。 「瞬と文通したいなどと、アナクロなことを言い出す者が出てこないあたりは、さすがに常識を わきまえている人間が揃っている――と言っていいのではないか」 それまで ほとんど口を挟むことなく、星矢と沙織の やりとりを脇で聞いていた紫龍が、沙織、瞬、氷河と、順に視線を巡らせてから、最後に星矢の上で視線を止め、告げる。 それまで渋面に近い顔をしていた星矢は、途端に その渋さを放棄した。 「それ、滅茶苦茶 面白いことになりそうじゃん。氷河が超厳しい検閲するんだろ。『拝啓』じゃなく『こんにちは』で始まる手紙も、“馴れ馴れしい”で受け取り拒否。肉まん5万個 賭けてもいいけど、瞬の手許に届く手紙は ただの一通もないぜ。俺、断言する」 子供の頃の瞬の文字を思い出そうとする作業を、星矢は中断、放棄してくれたらしい。 瞬は ほっと安堵の息を洩らし、それから、沙織から受け取った芳名リストを見て、もう一つ 趣の全く異なる溜め息をついた。 |