そんな出来事はあったが、強大な力を持つ邪神が地上世界に食指を動かす気配がなければ、アテナの聖闘士たちの日々は平和である。
翌日も、城戸邸に起居するアテナの聖闘士たちの許には 平和な一日が訪れた。
秋晴れ。
晴れた空は、いかにも秋のそれらしく高いところにあり、空気は清澄。陽光は 優しく やわらかい。

昨日と変わらぬ平和な秋の日。
昨日と違っているのは――もとい、いつもと違っているのは――平生は仲間内で最も早起きの瞬が 朝食の時刻になっても 仲間たちの前に姿を現わさないこと。
毎朝 星矢たちの前で展開される、“瞬に散歩(デート)をねだる瞬の犬の図”が展開されないこと。
そして、瞬のものとおぼしき朝食を載せたトレイを、氷河が瞬の部屋に運んでいったこと。

一般的には こういう場合、事情を知る人間は、事情を知らない人間に、なぜ瞬が部屋から出てこないのか、その理由を伝え、『心配無用』とか『心配しろ』とか言うものだろう。
しかし、氷河に そんな一般的かつ常識的な気配りを期待するのは無理というもの。
飼い主ばかりを見て その周囲に注意を払わない犬は、実は介助犬としても盲導犬としても不適格なのだが、氷河は まさに不適格犬の典型だった。

「夕べは、山で夜遅くまで足止めを食っていたんだ。この時季の奥多摩なら、気温は氷点下近くまで下がっていただろう。風邪でも拾ってきたのではないか」
「氷河はぴんぴんしてるのに」
「氷河に比べるのは、瞬に対して失礼というものだろう」
「そりゃそうだ」
氷河には 特段 慌てた気配はなかったから、おそらく そんなところだろうと考え、星矢と紫龍は、瞬が朝食を済ませただろう頃を見計らって 瞬の部屋に見舞いに向かったのである。
案の定、瞬はベッドの中にいた。
上体は起こしていたが、いかにも熱っぽく だるそうな様子をしている。
風邪を拾ってきたのだとしたら、まだ ひき始め――というように思われた。

「アテナの聖闘士が 足を挫いたと思ったら、今度は風邪かよ。瞬。おまえ、やっぱり たるんでるぞ」
「風邪は、ひき始めの対処が大事だ。身体を温め、休養と栄養を取り、抵抗力をつけるのが肝要。熱は高いのか? とりあえず、漢方薬をもってきたが」
「え……」
仲間たちの見舞いの言葉を聞いた瞬が、ぎくりと身体を強張らせる。
それから 瞬は、少しく困惑したように瞬きを幾度か繰り返し、うっすらと頬を上気させた。

その時点で既に、星矢は 嫌な予感がしていたのである。
咄嗟に 言うべき言葉を思いつけなかったらしい瞬の代わりに、氷河が、
「足に悪い癖をつけるわけにはいかないからな。今日は 散歩には行けないだろうと思って、夕べのうちに今日の分の運動をしておいただけだ。瞬は風邪をひいたわけではない」
と説明をしてきた時点で、漠として形を成していなかった星矢の嫌な予感が形を結び始める。
「なに?」
「氷河、言わないでっ」
そこに、更に 瞬の悲鳴。
“風邪をひいたわけではない”瞬が、なぜ この時刻になってもベッドの中にいるのか、全く察しがついていなかったといえば、それは嘘になる。
にもかかわらず、星矢が 氷河に、
「言えっ!」
と険しい声で命じたのは、彼が“希望の闘士”でありすぎたからだったろう。
つまり、星矢は、自分が漠然と察したことが 事実と違っていてくれればいいという希望に すがってしまったのだ。
しかし、ここは戦場ではなく、氷河はアテナの聖闘士が倒すべき邪神では(一応)ない。
当然(?)、アテナの聖闘士である星矢が抱いた希望は 無残に打ち砕かれることになったのである。
氷河は いかなる罪悪感も抱いていないように――むしろ得意げに――なぜ瞬がベッドから起き上がることができなくなったのかを星矢たちに語ってくれた。






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