パパのライバル






「どうしてパパは、私ばっかり怒るのっ」
瞬の病院のホスピタルパークで見掛けた 見知らぬ親子連れのやりとりが、ナターシャの心に不安の灯をともすことになったらしい。
「それは、パパがリカちゃんに いい子になってほしいと思っているからよ」
「でも、最初に 私の髪を引っ張ったのはワタルの方なのに! だから、私は ちょっと小突いただけなのに! そしたら、ワタルが勝手に転んだだけなのに!」
小さな弟のいるお姉ちゃん。
原因は 弟の振舞いにこそあるのに自分だけが叱られ、両親が弟ばかりを甘やかしているように思われて、彼女は おかんむりらしい。

「ワタルちゃんは まだ小さくて、していいことと悪いことの区別がつかないの。それは小さい子だから仕方のないことなのよ。パパは、リカちゃんに 小さな弟を思い遣れるような優しい いい子になってほしいと思っているの。だから、リカちゃんを叱るのよ」
そんな母子のやりとりを聞いて、ナターシャは、自分を叱らない氷河に不審の念を抱くことになったようだった。

氷河の仕事は主に夜間。
帰宅は始発の電車が動き出す頃。
そして、いくら聖闘士であっても、睡眠は必要。
氷河自身は 一日の睡眠時間は3、4時間も取れれば十分だったのだが、生活が不規則なのは 仕事柄 仕方がない。
子供に昼夜逆転の生活をさせるわけにはいかず、氷河のイクメン生活には、彼の友人知人たちが全面的に協力していた。
瞬や紫龍、時には吉乃が、時間の許す限り、ナターシャの面倒をみている。
ナターシャは聞き分けのよい子で、性格も素直、容姿も人形のように可愛らしく、皆がナターシャを預かりたがっていた。

とはいえ、彼等にも彼等の生活があり、仕事がある。
どうしても誰も時間を取れない時もあるわけで、そういう場合には、瞬が 病院内の院内託児所にナターシャを預かってもらっていた。
病院の医師や看護士、職員の子供の院内保育のための託児所は、基本的に24時間営業。
なにしろ病院の敷地内にあり、体調が悪くなっても、すぐに適切な処置ができる。
同年代もしくは それ以下の子供と接する機会を持つこともできる。
子供が大人とばかり(それも特殊な大人とばかり)接しているのは好ましくないと、氷河は 氷河にしては まともなことを考えているようで、瞬が 瞬の勤め先の院内保育システムの活用を提案した際、氷河は その提案に比較的 すんなりと乗ってきた。
特殊な大人とばかり接しているのは問題だが、特殊な大人が側にいないと心配な子供でもあるのだ、ナターシャは。
瞬の勤め先にある施設なら、これほど安心で安全な場所はないと、氷河は考えたようだった。

そういう経緯で、その日、ナターシャは 朝から瞬の勤め先の病院に来ていたのである。
入院、通院、リハビリ中の患者や、仕事上 ストレスの多い病院職員のメンタルケアのために整備されているホスピタルパークの落葉広葉樹は そろそろ最後の葉を散らそうとしている。
通院患者たちがほとんど出払った時刻、ホスピタルパークのベンチに座っているのは 入院患者と その付き添い、そして 穏やかな陽光を求めて やってきた近隣の年配者たち。
小春日和の平和で静かな秋の午後だった。

「どうしてパパはナターシャを叱らないのかな」
3時に受付を締め切る午後の診察時間は終わり、夕暮れには まだ少々 間がある。
もしかしたら今年最後の銀杏の葉と紅葉。
なぜ 同じ緑色の葉が、一方は黄色になり、一方は紅色になるのか、ベンチで2枚の葉を不思議そうに見比べていたナターシャが そう言い出したのは、そんな季節の そんな時刻だった。
「え?」
ナターシャの隣りに腰掛けていた瞬が首をかしげて、ナターシャの顔を覗き込む。
瞬の横で、ナターシャも首をかしげていた。

「こないだ、ナターシャがキッチンを水浸しにした時も、買ってもらったばっかりの お洋服を転んで汚しちゃった時も、パパはナターシャを叱らなかったの。パパは ナターシャに いい子になってほしくないの?」
「ナターシャちゃんは、パパに叱られたいの?」
「……」
瞬の問い掛けへの答えは、すぐには返ってこない。
もちろん、パパに叱られたくはない。
もちろん、褒められる方が嬉しい。
だが、子供を叱ることが いい子になってほしいという父親の願いによって為される行為であるなら、叱られるようなこともしてみたい。
ナターシャの心は 複雑なようだった。

「ナターシャちゃんが 誰かを傷付けるようなことをすれば、氷河はナターシャちゃんを叱るよ」
「そんなことできない」
今度は即答。
瞬の唇は、自然に微笑の形を描いていた。
「氷河がナターシャちゃんを叱らないのは、ナターシャちゃんが いい子だからだと思うけど。いい子を叱ったら、氷河が悪者になっちゃうでしょう。ナターシャちゃんのパパは正義の味方なんだよ」
『パパは正義の味方』
そのフレーズを笑わず 真面目に聞いていられるほど、ナターシャは幼い。
そして、幼い子供が幼い子供でいられるのは幸せなことである。

瞬と瞬の仲間たちがナターシャの年頃だった時、瞬たちの周囲に“正義の味方”といえるような大人は 一人もいなかった。
瞬と瞬の仲間たちは、人を傷付けるどころか、悪いこと一つしていないのに、大人たちに叱られてばかりいた。
瞬には、氷河がナターシャを叱れない訳が わかるような気がしたのである。
いい子にしているのに叱られて泣いてばかりいる仲間の姿を、氷河は何度も見すぎたのだ。
『ナターシャには、幸せな思い出しか必要ない』
それは、氷河が まだ非力な子供だった頃に叶えられなかった彼の夢なのである。
泣き虫の仲間に対して、師に対して、そして 彼の母に対して――彼の愛する人たちに対して叶えられなかった彼の夢なのだ。

瞬は、今度こそ、氷河の夢を叶えさせてやりたかった。
だから――だから 瞬は、ナターシャの、
「人を傷付けたら……パパはナターシャを叱ってくれるの?」
という言葉に 過剰反応してしまったのかもしれなかった。
ナターシャに悪意のないことは わかっていたのに。
「ナターシャちゃん。そんなことしたら、氷河だけでなく、僕もナターシャちゃんを叱るよ。氷河と違って、僕は恐いからね」
「瞬ちゃん先生が恐い……? 瞬ちゃん先生は いつも にこにこしてて優しいのに。みんな、そう言ってるよ。パパも紫龍おじちゃんも吉乃お姉ちゃんも。瞬ちゃん先生はすごく優しいって」

いつも にこにこしている瞬の恐い顔を、ナターシャは想像できないのかもしれない。
ナターシャは そういう目をしていた。
困惑の色が たたえられた瞳。
『パパに叱られてみたい』
それは何という幸福な願いだろう。
氷河の夢は叶っているのだ。
ならば、彼の仲間も幸福である。
瞬は、氷河の幸福を守るために、氷河より 少し しっかりした大人を演じることにした。

「それは、みんながナターシャちゃんを恐がらせたくないから、そんなことを言ってるんじゃないかな。一度、パパや紫龍に訊いてみて。僕を本気で怒らせたら どうなるの? って」
氷河を幸福にしてくれている小さな少女に、微笑んで そう告げる。
ナターシャは 相変わらず、瞬の怒った顔など想像できないというかのように、その大きな瞳を きょとんとさせていた。






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