惰弱という言葉を辞書で引くと、 (1) 気持ちに張りがなく、だらけていること。意気地のないこと。気力に欠けること。 (2) 体力が弱いこと。勢力の弱いこと。 となっている。 それが、瞬の兄・一輝の口癖だった。 弟の涙を見るたびに、情けなさそうな顔をして、『惰弱な……』と呟くのが。 そして、敬愛する兄に そう言われるたびに瞬がしおれる様は、瞬の幼馴染みたちには 見飽きるほど見慣れた光景だったのである。 「きっと 兄さんは、僕みたいな泣き虫じゃなく、星矢みたいに元気で明るい弟がほしかったんだ……」 昨夜も瞬は、兄に その言葉を言われてしまったらしい。 学校に最も近く、一人暮らしで、あれこれ やかましいことを言う家族がいない――という理由で、いつのまにか仲間内の溜まり場になってしまった氷河のマンションのリビングで、星矢は 今日もまた、しおれ 項垂れている瞬を慰めることになったのである。 「んなことないって。おまえみたいに できた弟なんて、どこにもいないぞ。料理はうまいし、掃除だって 洗濯だって 裁縫だって、へたな専業主婦 顔負けに きっちりこなしてるし。その上、神経細やかで優しいし、可愛いし、大人しくて、控えめで、成績優秀、スポーツ万能。ちょーっとだけ涙もろいだけだろ。おまえが女の子だったら、俺、絶対に おまえを嫁さんにもらうぞ。だいたい一輝の奴、毎日 おまえに飯を作ってもらってるくせに、んな文句言える立場かよ!」 星矢は瞬とは同い年の高校2年生で、クラスも同じ。 毎日の宿題やレポート、テストのやまかけ等では 言葉に尽くせないほど瞬の世話になっているせいもあって、星矢は いつでも どんな場合でも 瞬の味方だった。 「まあ、瞬は一輝に扶養してもらっていて、なかなか強く出られない立場にあるわけだからな。……で、今度の“惰弱”の理由は?」 見慣れた光景に苦笑しつつ、瞬に尋ねたのは、星矢や瞬より1つ年上の紫龍。 彼は基本的に中立。 中立で、公平かつ客観的な判断を旨としているからこそ、非のない人間――つまり、瞬――の肩を持つことが多かった。 「夕べは……区の広報誌がポストに入ってて、その中に 区の公会堂で絵本の読み聞かせ会が開催されるっていう お知らせの記事があったんだ。題材が『百万回 生きたねこ』ってあって、あの話を思い出したら、泣けてきて……。そしたら 兄さんが『男が泣いていいのは、母親が亡くなった時と、財布を落とした時だけだ』って言って……」 「はあ?」 星矢が素頓狂な声をあげた理由は、第一に、『百万回 生きたねこ』なる絵本の内容を知らなかったから。 第二に、一輝の主張の正当性に疑念を抱いたからだった。 「えーと……」 コメントに迷うことになった星矢の事情を察した紫龍が、迅速かつ的確に『百万回 生きたねこ』がどんな話なのかの説明を始める。 「生まれ変わるたびに飼い主に愛されたが、自分自身は愛を知らなかった猫が、初めて愛を知り、死んでいく話――という解釈でいいのかな。あれは 瞬でなくても泣ける話だろう」 瞬でなくても泣ける話なら、瞬なら確実に泣くだろう。 財布を落とした時には男でも泣いていいという一輝の価値観、その涙を瞬の涙と同列に語る一輝の感性は 語る価値もないと思うが、母親が死んだ時には泣いてもいいというのは、一輝にしては寛大な意見と言っていいかもしれない。 ――と、この部屋の主に一瞥をくれて、星矢は思った。 マザコンで名を馳せている この部屋の主が、一輝の寛大(?)を どう思ったのかは、星矢には察することはできなかったが、ともあれ 氷河は 瞬の涙の事情を聞いても無表情かつ無言だった。 星矢と同じように氷河に ちらりと視線を投げ、しかし そのことには言及せず、紫龍が 瞬の心を慰撫する作業に取りかかる。 「兄貴が 粗野でガサツで大雑把だから、瞬は 繊細で神経細やかにならざるを得なかったんだろうに、一輝の奴、何を勝手なことを言っているんだか……。思うに一輝は、何でもできる優等生の弟に対して、兄としての沽券を守るために、必要以上に偉ぶっているところがあるのではないか? あまり気に病むな」 「一輝は偉ぶってるわけじゃないだろ。あいつは 本気で 自分くらい強い男はいないと思ってて、だから 当然 自分より偉い男はいないと思ってんだよ。ぶってるわけじゃない。まあ、実際、あいつ、喧嘩は強いしな」 「ははははは」 紫龍の笑いが 皮肉が勝ったものになったのは、一輝の喧嘩の強さは 瞬を守るために培われたものであることを知っているからだった。 彼等が児童養護施設にいた頃、瞬に ちょっかいを出す輩を追い払い、ぶちのめすために、一輝は喧嘩の技を磨いたのだ。 それで やたらと喧嘩に強くなってしまったことが、一輝を自信家にし、その自信が 今は瞬を泣かせているのだとしたら、これほど皮肉なことはない。 「一輝には、兄である自分が強く毅然としていないと、おまえが不安になると思っている節もある。あいつは、おまえのために気を張っているんだ。決して、おまえを疎んじているわけじゃない」 「いかにも強そうにしてないだけで、その気になったら、瞬も結構 強いのにな。剣道だって、合気道だって、段位持ってるんだし。まあ、瞬が喧嘩してるのなんて、見たことないけどさ」 「そもそも喧嘩にならないからな。うちの学校の男共は皆、瞬の下僕のようなものだ。瞬に逆らえる奴など一人もいない」 「“可愛い”は力だよなー。生活指導の先生に『廊下を走るな』って言われても、言うことをきかない やんちゃ共も、瞬に『危ないですよ』って言われると、でれーっとして、てくてく廊下を歩き始めるんだから。あれって、もはやギャグだよな、ギャグ」 その光景を思い出し、声をあげて笑ってから、星矢は この部屋の主が全く楽しそうにしていないことに気付いた。 星矢にはギャグでしかないことが、別の人間には ギャグどころか、極めて腹立たしく不愉快極まりない事象になることもある。 そういうことが普通に頻出するから、笑いというものは、深く 複雑で 扱いの難しい代物なのだ。 星矢は別に 氷河に笑ってほしいわけではなかったので、氷河の仏頂面に文句をつけるようなことはしなかったが。 星矢が笑ってほしいのは、氷河ではなく瞬なのだ。 「氷河、おまえも黙ってないで、何か言えよ。おまえの大好きな瞬が落ち込んでんだから」 氷河の仏頂面には 文句をつけないが、その沈黙には文句をつける。 ぶすっとして仲間たちの話を聞いているばかりの氷河に、星矢は水を向けた。 星矢が“瞬の味方”、紫龍が“中立”なら、氷河の立ち位置は“一輝の敵”だった。 なにしろ 氷河は、一輝を強くした張本人。 養護施設にいた頃、瞬に ちょっかいを出しまくり、日に1度は一輝と喧嘩をしていた氷河は、一輝とは いわば宿敵同士なのだ。 宿敵への氷河の言は辛辣だった。 「おまえが側にいてくれることの有難味がわからないような兄の世話などしてやる必要はない。ここに――俺のところに来い。おまえのための部屋は空いている」 辛辣というより、極端にすぎる氷河の提案に、氷河に発言を促した星矢当人が 顔をしかめる。 一輝が瞬の実兄で、自分は瞬の血縁でも何でもない赤の他人なのだという事実を無視しきっているような氷河と その提案に、星矢は呆れないわけにはいかなかった。 子供の頃の 数年間を同じ児童養護施設で過ごし、なぜか つるむことになった五人の仲間。 その五人のうちで 血がつながっているのは瞬と一輝の兄弟だけだった。 血縁が全くなく、祖父ではないが 祖父と言っていい人物に引き取られ、共に暮らしている紫龍。 成人した姉と施設を出て暮らしている星矢。 同様に、兄と暮らしている瞬。 そんなふうに 親の顔を知らない四人とは、氷河は少々 事情を異にしていた。 氷河は、共に暮らしていた母を亡くし、幼い頃に 施設に身を寄せることになったが、その数年後、父親がいることがわかり、その父親に引き取られたのだ。 だが、氷河の父親には既に別の家庭があり――氷河の父は 現在では――中学の頃から――氷河にとっては、“生活費を出すだけの親権者”になっている。 同じ養護施設出身でも、氷河だけは母の顔を知っており 実父が存命しているのだが、だから 彼が恵まれた環境にあるとは、彼の仲間たちは思ってはいなかった。 むしろ、優しかった母親の思い出があり、実父が生きているからこそ、氷河の欠如感は深いのだろうと、彼の仲間たちは察していた。 そして、であればこそ 氷河は、“人”に――人の心を思い遣ること、人を愛することを知っていて、氷河の性格と事情を熟知しており、その上、生きていて自分の側にいてくれる瞬に――執着するのだと。 「おまえんちに来いってさ、それって、根本的な解決になってないだろ」 「あいつは自分で飯も作れない能無しだ。瞬が いなくなれば、奴も瞬の有難味を思い知るだろう」 「瞬は、一輝の自慢の弟になりたいんだよ。瞬は、一輝を へこましてやろうとか、思い知らせてやりたいとか、そんなことしたいわけじゃないの」 「これ以上 どうやって自慢の弟になれというんだ。瞬のような弟がいたら、俺なら、誰彼構わず 自慢してまわるぞ。瞬は素直で優しくて、真面目な努力家だ。努力の結果も出している。家事一般だって、一輝のために覚えたんだ。おまけに、泣く子も見とれるほど可愛い。勉強もスポーツも高校生としては全国トップクラス。すべて、一輝が誇れるような弟でありたいと努めた結果だぞ。そんな健気な弟に文句を言う方が間違っている」 「それはまあ、そうなんだけどさ……」 その意見には、星矢も紫龍も賛同せざるを得なかった。 瞬は、涙もろいことを除けば理想の弟――理想以上の弟なのだ。 であればこそ――瞬は、これ以上 兄のために何を頑張ればいいのかわからずにいる。 わからなくて、自信を失い、途方に暮れている。 そして、そんな瞬に対して、氷河は、おまえが これ以上 兄のために努力を重ねる必要はないと主張しているのだ。 「根本的に解決する必要などないぞ。俺のところに来い」 氷河が“一輝の敵”なのは、要するに、彼の欲しいものを一輝が持っているから――だった。 氷河が欲しい“瞬”が 一輝の手の内にあることが、氷河を“一輝の敵”にするのだ。 しかし、瞬が氷河のところに来るのは解決ではなく、逃避である。 前向きで努力家の瞬に、そんなことができるわけがない。 なにより 瞬は、これ以上 ないほど、兄を敬愛し、慕っていた。 根本的解決法は見付からず、かといって、氷河の推奨する非根本的解決を実行することなど思いもよらず――結局、その日、星矢と紫龍に『元気を出せ』と励まされた瞬は、いかにも無理をして作った微笑を浮かべて、家に帰っていったのだった。 |