氷河と瞬を“どうにか”できていない現状では、アスガルド勢とアテナ陣営の勢力図は、ロキ、ウル、ルング、氷河、瞬 VS 星矢、紫龍。
つまり、5対2。
その最悪の事態は、ワルハラ宮の足元の雪原に現出することになった。
星矢と紫龍がワルハラ宮に突入する前に、ドルバルの神闘士たちが、アテナの聖闘士たちの行く手に立ち塞がってきてくれたのである。
本当に、氷河と瞬が敵として、星矢と紫龍の前に現れたのだ。


「瞬! なんで おまえまで、アスガルド側についてんだよ! おまえは、氷河と違って、寒い国の方が性に合ってるとかじゃないだろ!」
「ぼ……僕は、氷河を――氷河と戦いたくないの」
「その気持ちは わかるけどさ、おまえはアテナの聖闘士だろ!」
雪原に響く星矢の訴えは、非難糾弾というより、泣き言めいていた。
天気は快晴なのに、星矢の声は 吹雪の夜に風が作る悲鳴に酷似していたのだ。
そんな星矢を見て、ロキが 楽しそうな笑い声を白い大地の上に滑らせる。
端正といっていい容貌の持ち主の声音は、ひどく下卑ていた。

「本当のことを正直に教えてやればいいではないか、アンドロメダ」
ドルバルの神闘士の中では、ロキが最もドルバルに似ていると思う。
表情も、目付きも、その声も言葉も―― 一言でいうなら“嫌らしい”。
彼は、他人を蔑むことで、自分自身をも下劣な人間に貶めている。
ロキとドルバルは、対峙する人間に そういう印象を与える男たちだった。

「本当のことって何だよ!」
怒鳴りつけるように問い返して すぐに、星矢は自分のしたことを後悔した。
ロキの返答を聞いて、そんなことを訊かなければよかったと、星矢は 自身の条件反射的軽率を悔やんだのである。
「アンドロメダは、ワルハラ宮に忍び込み、囚われ、ミッドガルドに犯されて、あっさり 我等の側に寝返ったのだ。清純そうな顔をして――いや、清純だから、初めての男に骨抜きにされ 溺れることになったのかもしれんが。いずれにしても アテナの聖闘士の正義など、その程度のものだ」
「氷河、おまえ、ほんとに 瞬にそんなことをしたのかっ!」

ミッドガルドの赤い神闘衣を まとった氷河は、星矢に責められても無言だった。
まるで氷河ではないかのようにクール。
瞬は 依然としてアテナの聖闘士としての心を維持しているようだったが、氷河は やはりどこか何かが いつもの彼ではなかった。
それでも、ロキのように下卑た口調で得意げに 下劣なことを自慢してこないだけ、対峙する人間を不快にはしない。
ロキに比べれば、氷河の顔をした男には品位というものがあった。

ともあれ ロキの下卑た与太話のおかげで、星矢は、命の危険を冒してアテナの聖闘士の許に逃げてきた情報提供者が、ミッドガルドの“説得”についての説明を ためらった訳だけは わかったのである。
普通レベルの品位を備えている人間なら、それは、語らずに済むなら語らずに済ませたいことだろう。
もっとも 星矢は、ロキの下劣な話を そのまま受け入れるようなことはしなかったが。
氷河が瞬の 初めての男なのは おそらく事実だろうが、ワルハラ宮でミッドガルドが瞬に為した無体が、瞬の“初めて”とは限らない。
そう思うから、星矢は、ロキの得意顔が 一層 不愉快に感じられたのである。
そもそも、瞬を“説得”したのはロキではない。

であればこそ 星矢は不愉快な顔になったのだが、ロキは、自分の言葉がアテナの聖闘士にショックを与えたのだと思い違いをして、ひどく楽しそうだった。
楽しそうに、ロキが アテナの聖闘士たちに命じてくる。
「まずは、アテナの聖闘士同士で戦うがいい。いい見世物だ。おまえたちがミッドガルドとアンドロメダを倒すことができたなら、仲間を冷酷に打ち倒すことのできた おまえたちの非情に敬意を表して、俺たちが おまえたちを倒してやろう。アテナの聖闘士たちの戦いに決着がつくまで、俺たちは高みの見物をさせてもらう」

さすがは あのドルバルの神闘士。
星矢が最も避けたい戦いのお膳立てを整えてくれる。
氷河と瞬 VS 星矢と紫龍。
それは まさに最悪のパターンだった。
ロキが考えていることとは微妙に違う意味で。

「瞬、わりい。俺、おまえの顔を殴れねー。おまえは紫龍と戦ってくれ。俺は氷河と戦うから」
星矢にとっての“最悪”は、アテナの聖闘士とアテナの聖闘士が敵対し戦うことではなく、天馬座の聖闘士がアンドロメダ座の聖闘士の顔に 何らかの危害・損傷を与えることだったのだ。
そして、それは龍座の聖闘士も同様である。
「それは困る。俺も、できれば他の敵を所望する。いっそのこと、アスガルドの神闘士三人まとめて 相手をするのでもいいぞ。瞬と戦わずに済むのなら、その方が ずっといい。それが無理なら、俺の対戦相手に氷河、星矢の対戦相手に瞬を指名してくれ。そうしてくれたら、一生 恩に着る」
仮にもアテナの聖闘士が、アテナと聖域に敵対する者に 頼みごと。
目の前で堂々と、公正取引に反する談合行為を展開されてしまった星矢は、紫龍に食ってかかることになった。

「なに言ってんだよ! 氷河と戦うのは俺!」
「いや、ここは、同い年対決ということで、俺の担当は氷河、おまえの担当は瞬ということに――」
「んなこと、勝手に決めんなよ! 俺にだって、都合ってもんがあるんだからさ!」
「都合は、俺にもあるんだ!」
「おまえの都合なんか、俺が知るかよ!」
「それでは、筋が通らないだろう。おまえの都合を優先して、俺の都合は無視されるというのは、どう考えても理不尽だ。公平性を欠く」
「公平性なんて食えもしないものに こだわってどうなるんだよ! 大事なのは、俺が瞬の顔を殴らずに済むには どうしたらいいのかってことなんだ!」
「それは俺も同じだ!」

――といった調子で、星矢と紫龍の主張は どこまでいっても平行線。一向に交わる気配が見えない。
いつまで経っても拳を構えることすらせず、見苦しい内輪揉めを続けているアテナの聖闘士たちに、ドルバルの神闘士たち(含む、氷河と瞬)は唖然呆然。
星矢と紫龍が何を求め、争っているのか、ロキは全く理解できずにいるようだった。
全く理解はできないが、それでも 星矢たちに無視されていることは不愉快だったらしいロキは、星矢と紫龍の言い争いに 割って入ってきた。

「アテナの聖闘士は、訳のわからない屁理屈をこねて、ミッドガルドだけを 袋叩きにしようという魂胆か。なんと卑怯な――」
「卑怯とか何とかっていうんじゃなく、俺たちは瞬の顔を殴れないって言ってんだよ。卑怯も糞もない。これは美意識の問題なの!」
「何が美意識だ。ふざけるな。今がどういう時だと思っている。俺たちは、世界の覇権を賭けて戦っているのだぞ!」
「じゃあ、おまえは瞬の顔を殴れるっていうのかよ!」
星矢には、決してロキを挑発する意図はなかった。
星矢は、自分たちの都合をロキが理解してくれることを期待して、虚心にロキに そう尋ねたのである。
なにしろ星矢は、瞬の顔を殴るなどという、人間の尊厳を放棄したも同然の野蛮な行為は ロキにもできないだろうと決めつけていたのだから。

星矢に 訳のわからない噛みつき方をされ、それでなくてもアテナの聖闘士たちのバトルが いつまで経っても始まらないことに 苛立っていたのだろうロキは、不用意に、軽い気持ちで、
「簡単だ」
と答えてきた。
そして、ロキは、なぜ そんなことができないのだと言うように、氷河の隣りに立っていた瞬の顔を、あろうことか ぐーで殴ったのである。
瞬は、よけなかった。
ミッドガルドの闘衣を身につけた氷河が、ぴくりと口許を引きつらせ、だが一言の言葉を発することもしない。

そんな氷河とは対照的に、星矢の反応は迅速で明瞭だった。
雪の上に倒れた瞬を見やり、一瞬の逡巡も見せずに ためらうことなく瞬の顔を殴ってのけたロキを 睨みつける。
「よくも瞬をっ! てめえは人間じゃねえっ! 人面獣心の餓鬼畜生だっ」
「人間じゃない? 貴様は何を言っているんだ。こんなことは誰にでも――」
星矢の激昂の訳が、ロキには まるでわからなかったのである。
仲間に暴力を振るわれて立腹する気持ちは、一個の人間の反応として わからないでもないのだが、今 この場にいる者は皆、己れの目的のために戦う闘士たちばかり。
その中の一人が、その中の一人の顔を殴ることに、どんな問題があるというのだ。
――と、ロキは思っていたのだ。

ロキが星矢の怒りを理解できないように、星矢もまたロキの振舞いを理解できずにいた――それは 人間にできることではないと思っていた。
当然、人非人の言葉など 聞いていられない。
「俺は、人間じゃねーものには 手加減しねーぞっ!」
「何が手加減だ。そんなもの……ぐはっ」
ロキは、憤怒に燃えた星矢の敵ではなかった。
星矢の怒りは ロキに拳を構える隙すら与えず、星矢自身、拳を構えている時間も惜しいとばかりに、ロキに対して殴る蹴るの大暴行。
「星矢、ほどほどにしておけ。おまえが 瞬を痛めつけた敵の息の根を止めてしまったら、一輝が出てくるタイミングを逸することになる」
紫龍が そう言い終える前に さっさとロキを倒した星矢は、ロキへの怒りの勢いをそのままに、今度はミッドガルドの姿をした氷河に向かって怒声を張り上げていた。






【next】