「氷河っ。おまえも、瞬の顔を殴れんのかよ!」
一応、神闘士のリーダー格ということになっていたロキが 手もなく星矢に倒されてしまったことに驚きはしたのだろうが、それで見苦しく慌てることもせず、氷河は 相変わらず 彼らしくないクールのポーズを維持したままだった。
氷河らしくなく、取り乱したところの全くない声で、星矢に答えてくる。
「アンドロメダは、我等の味方だ。共にドルバル教主に従う者。俺の説得で、アテナよりドルバル教主の方が 世界を支配するにふさわしい力を持つと、アンドロメダは考えを改めたのだ」
「何が説得だよ。うぬぼれんな! 寝技で瞬を説得できるわけねーだろ!」
「何を言う。現にアンドロメダは――」
「瞬は、おまえを心配して、おまえの側にいるために、寝返った振りをしてるだけ! 瞬はアテナの聖闘士で、アテナの敵は瞬の敵だ! おまえがドルバルの神闘士でいる限り、瞬は俺たちの味方で、おまえの敵なんだよ!」
「そんなことは――」

言われて、ミッドガルドが瞬の上に視線を巡らせる。
瞬は ちょうど、倒れた身体を助け起こそうとする紫龍に手を取られたところだった。
助け起こしながら、紫龍が瞬に こっそりと――ウルとルングに聞こえぬように――耳打ちをする。
「ドルバルに従うつもりはないと言え」
「でも……」
ドルバルの力は強大。
その力は、たった今も、ワルハラ宮だけでなく、その周辺をも――たった今、瞬たちがいる場所にも及んでいる。
とはいえ、瞬のためらいは、どうやら ドルバルの力の強大を恐れてのことではないようだった。

「紫龍……氷河はドルバル教主の魔拳で洗脳されているの」
「洗脳?」
紫龍に反問された瞬が、小さく彼に首肯する。
「記憶を消されたり改竄されてるわけじゃないんだけど……氷河としての記憶は そのままに、ドルバルに従うよう、精神を操作されているんだよ」
ワルハラ宮に忍び込み、その事実を突きとめた瞬は、氷河の洗脳が解けないことを何よりも恐れているらしい。
ドルバルを倒すことで氷河の洗脳が解けるなら、どんなことをしてもドルバルを倒す。
だが、その確信が得られないから――瞬は、氷河の洗脳を解く手立てを探して、ワルハラ宮に留まり続けていたものらしかった。

「そういうことか。だが、大丈夫だ。言え」
「でも、紫龍……」
「氷河に、氷河としての記憶が残っているのなら大丈夫だ。氷河の洗脳が ドルバルを倒しても解けないものだったとしても、それなら 今度は おまえが寝技を駆使して、氷河を説得すればいい。氷河なら説得される。俺が保証する」
紫龍に 確証と自信に満ちた態度で 断言されてしまった瞬は、真っ赤に頬を染めた。
だが、仲間の言葉、仲間の保証は、瞬には信ずるに足るものだったのだ。
自力で その場に立ち上がった瞬は、意を決したように 氷河に向き直った。

「僕はアテナの聖闘士だよ、氷河。僕は、ドルバルには従わない」
瞬の宣言に、氷河は さすがに それ以上はクールでいられなくなってしまったらしい。
彼は、初めてクールの仮面を かなぐり捨て、声を荒げた。
「俺の言うことを何でもきくと言ったではないか!」
「僕は、氷河の言うことなら 何でも聞くって言ったんだよ。ドルバルやミッドガルドに従うなんて、一言も言ってない」
「貴様……!」
瞬を貴様呼ばわりする氷河。
ドルバルが氷河に施した洗脳は、それなりに強いものであるらしい。
瞬を完全に説得できたものと、氷河は うぬぼれてもいたのだろう。
氷河の瞳に 瞬に対する憎悪の光が宿っていることを認め、星矢は大いに不快になった。

「瞬を貴様呼ばわりとは、おまえも偉くなったもんだな! お偉いミッドガルド様になら、瞬の顔を殴ることもできるのか?」
星矢が、今度は明確に挑発の意図をもって、氷河を問い質す。
既に クールの仮面をかなぐり捨てていた氷河は、その挑発に乗り、瞬の顔を殴るべく拳を構えた。
瞬は逃げようとはせず、そんな氷河を見上げ、見詰めている。
その瞳を正面から見詰めてしまったのが、氷河の敗因だったろう。

「氷河……氷河……今年のクリスマスは、二人でシベリアにオーロラを見に行こうって約束したでしょう? 氷河、忘れちゃったの…… !? 」
逃げるどころか、氷河の拳を止めようともせず、瞳に涙を にじませた瞬が、悲痛な声で訴える。
氷河は、構えた拳を動かせなかった。
そうしろと、ドルバルに洗脳された部分は氷河に命じているらしいのだが、氷河の中に残っている氷河の記憶が、それを氷河に許さないらしい。
ロキの言っていた氷河の“説得”が事実なら、その時のミッドガルドの心情が どういうものであったにせよ、完全にドルバルの支配下にあった時にさえ、瞬は氷河にとって そういう存在だったのだ。
“氷河”に瞬を殴れるわけがない。

「う……」
ミッドガルドの――氷河の――苦渋の声。
氷河とミッドガルドが、氷河の身体と心の中でせめぎ合っている。
瞬は、拳を構えた氷河の前から動かず、抵抗する素振りも見せない。
瞳に涙をいっぱい ためて、氷河を見詰めているだけである。
瞬が 氷河の拳から逃げようとしないのは、瞬が氷河を信じているから――氷河がドルバルの力に打ち克ってくれると信じているから――ではなかっただろう。
氷河がワルハラ宮に――氷河の許に――留まっていたのも、瞬が氷河をアテナの聖闘士である氷河を信じていたからではなかっただろう。
瞬は ただ、氷河を放っておけなかっただけ、見捨ててしまえなかっただけ、“敵”の中に一人にしてしまうことができなかっただけなのだ。
瞬は 氷河を好きだから。

瞬の そんな気持ちが わかっているのか いないのか、氷河の中の二つの力の争いは 更に激しさを増しているようだった。
「手……手が動かんっ。身体が……心が……俺が、俺に逆らう……! 頭が割れる……っ!」
苦しんでいるのは氷河なのか、ミッドガルドなのか。
氷河の姿をした男が、顔を歪めて もがき出す。
「氷河……氷河、大丈夫っ !? 」
苦しみ もがく氷河を それ以上 黙って見ていられなくなったらしい瞬が、拳を構えていない方の氷河の手を両手で包む。
氷河の苦痛は、瞬に振れることで 一層 激しくなったようだった。

「おっ、いい感じじゃん。あと一押しってとこか。瞬、王子様の呪いを解くには、キスか、永遠の愛の誓いだ。どっちか、ぶちかましてやれ!」
氷河が瞬を殴ることができず苦しんでいるのは、良い兆し。
そう判断した星矢が 無責任に 瞬を煽る。
瞬は、涙の混じった悲鳴をあげた。
「そんなこと言ったって……。氷河っ、氷河っ、苦しいのなら、もう無理はしないで! ミッドガルドのままでいてもいい! もう、苦しいことは やめて。このまま ドルバルの力に逆らい続けていたら、氷河、死んじゃうよっ! 氷河、ミッドガルドのままでいてもいいから、生きていて!」

それまで、星矢と紫龍は――おそらく 瞬も――氷河の姿をした男が苦しんでいるのは、氷河の肉体の中で、氷河がドルバルの力を退けようとしているからなのだと思っていた。
だが、もしかしたら、そうではなかったのかもしれない。
氷河の身体を苦しめていたのは、氷河に消されてしまいたくないミッドガルドの抵抗だったのかもしれない。
ワルハラ宮で瞬を愛していたのは、氷河ではなくミッドガルドだったのかもしれない。
だから――『ミッドガルドのままでいてもいい』という瞬の訴えに、ミッドガルドは それ以上 抵抗を続けるわけにはいかなかったのだ。
瞬のために 自分は消えるしかないのだと、ミッドガルドは思ったのかもしれなかった。






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