アテナの聖闘士たちは、その日、アテナと1対1の個人面談を行ない、それぞれが定めた自身の今年の目標を 沙織に報告した。
彼等の上司である沙織からは その目標の意義、その目標が実現すれば どういった益が得られるか、いつ頃までに、どういった方法で目標実現を図るか等の質問があり、その後、最終的な目標決定。
四人全員の面談終了後、いかにも興味津々といった(てい)で、仲間たちに、
「で、今年の目標、何にしたんだよ?」
と問うてきたのは星矢だった。

「僕は、兄さんに定期連絡を入れさせる仕組みの構築」
あまり目標を達成できる自信がないのか、自分が設定した目標を告げる瞬の眼差しは少々気弱げ。
というか、瞬は、それが容易に達成できる目標なのか、達成困難な目標なのかが、自分でも わかっていないような様子をしていた。

「一輝に定期連絡を入れさせる仕組みの構築って、そりゃまた ビミョーな目標を立てたもんだな。紫龍は?」
「俺か? 俺は……」
星矢に問われた紫龍が、暫時 黙り込む。
もしかしたら 紫龍は、自分の設定した目標がアテナの聖闘士の目標として あまり適切とは言えないものなのではないかという思いがあって、それを仲間たちに告げることを ためらったのかもしれなかった。
「俺は、まあ……白居易の“廬山草堂記”を現代ギリシャ語に翻訳するという目標で納得してもらった。ギリシャでは 古い訳しか出回っていないそうだから。まあ、精神修養にいいかもしれんしな。星矢、そういう おまえは?」

「俺? 俺は――」
紫龍に問われた星矢は――星矢もまた 紫龍同様、しばし言いにくそうに口ごもった。
短く吐息してから、
「俺は、一応、ペガサス星雲拳を作る――でいってみることにした」
と答えてくる。
星矢の“今年の目標”は、アテナの聖闘士の1年の目標としては、極めて適切かつ妥当なものである。
が、おそらく 彼の今年の目標が それに決定するまでに、沙織との面談で丁々発止のやりとりがあったのだろう。
でなければ、アテナの聖闘士の目標としては 適切かつ妥当なものと言える天馬座の聖闘士の“今年の目標”を仲間たちに告げることを、彼が ためらう理由がない。

「で、氷河、おまえは?」
星矢が、自分の目標など どうでもいいと言いたげな顔で、その質問を 最後の一人に投げかける。
その質問が 自分に投げかけられてくることは わかっていただろうに、氷河は、その質問を自分に投げかけてきた仲間を 思い切り不愉快そうに睨みつけた。
そして、不機嫌そうな声音で、吐き出すように、自身の“今年の目標”を――もとい、目標候補を――仲間たちに知らせてくる。

「前振りなしにダイヤモンドダストを打てるようになる――という目標を提示したら、にべもなく 沙織さんに却下された」
「へ?」
氷河の不機嫌より、アテナが その目標を却下したことの方に、星矢は得心がいかなかったらしい。
彼は、むすっとした顔の氷河の前で、怪訝そうに首をかしげた。
「なんでだよ? それって、攻撃に備える時間を敵から奪うことになるから、バトルの勝率も上がるだろうし、結構 いい目標なんじゃないか?」

『なぜ 氷河と対峙する敵は、氷河が奇天烈な前振りダンスを踊り終えるのを律儀に待ち、氷河のダイヤモンドダストを その身に受けるのか』ということは、ギャラクシアンウォーズでヒドラ市が その技に敗北を喫した時以来のアテナの聖闘士たちの七不思議。
その“不思議”の答えを 星矢は知らなかったが、これまでの敵が皆 律儀だったからといって、氷河が これから出会う敵たちもまた律儀に振舞ってくれるとは限らない。
律儀でない敵に出会った時のために、事前に対応策を講じておくことは 非常に有益。
星矢は そう考えたのである。
が。
星矢の考えは、氷河のダイヤモンドダストを真正面から直接 受けたことのある者なら、まず抱かない考えだった。
そして、戦いの女神アテナは、さすがに そのあたりのことを正しく把握していた。
星矢に尋ねられた氷河が、いよいよ不機嫌の度合いを強くする。

「俺のダイヤモンドダストは、凍気より、あの前振りのダンスにこそ破壊力があるんだそうだ。無論、俺は そんなことはないと思っているが、それが沙織さんの却下理由だった」
「は……」
氷河の不愉快そうな顔も、当然のことである。
氷河の“今年の目標”の却下理由を聞いた星矢の顔が引きつる。
星矢の隣りにいた紫龍も、仲間に倣って その顔を引きつらせた。
龍座の聖闘士の引きつった顔は、この件に関しては できれば氷河の味方も沙織の味方もしたくないという思いを、無言で表明していた。

「まあ……今現在 行なっていることをやめるのは、言ってみれば それだけのことだから、目標としては認められないという理由もあるのではないか」
「そ……そりゃ そうだよな。“踊るのをやめる”じゃなく“踊れるようになる”なら、目標として成り立つかもしれないけどさ」
星矢の顔の引きつりは、いつのまにか 笑いをこらえるための顔面硬直に変わっていた。
おそらく その事実を氷河に悟られることを避けるべく、星矢が氷河に重ねて問う。
「で、別の目標にしたのか?」
「……」

その質問は、氷河を なお一層 不機嫌にするものだったらしい。
氷河は、顔だけでなく、その小宇宙までを不機嫌色に変化させた。
そして、沈黙。
1分の長きに及ぶ沈黙で、自分が今 いかに憤っているのかを仲間たちに示したのち、氷河は忌々しげに彼の“今年の目標”を仲間たちに発表したのである。
白鳥座の聖闘士の今年の目標は、氷河の凍気より、ダイヤモンドダストの前振りダンスより、圧倒的な衝撃をもって 彼の仲間たちに迫ってきた。
「マザコン卒業を目標にしろと、沙織さんから命じられた」

氷河は いつのまにアルゴルのメドゥーサの盾を手に入れたのか。
これ以上 引きつったら、自分の顔はダイヤモンドより硬い石になること必至――と、星矢は かなり本気で思ってしまったのである。
女神アテナは、何という難題を白鳥座の聖闘士に課したのだろう。
それは、ある意味、白鳥座の聖闘士の永遠の課題。
その課題がクリアされてしまったら、氷河は氷河でなくなってしまうと言い切れるほどに 解決困難な課題である。
沙織は、その困難至極な課題を 今年1年で克服しろと、氷河に要求したのだ。
これほど苛酷で、これほど無体な“今年の目標”もない。

「あー……でも、それってさ、それこそ、“卒業した”って言い張ればいいだけのことで、目標として成り立たないだろ」
いったい それはフォローなのか、追い打ちなのか。
言った星矢自身にも わからないことが、余人に わかるはずがない。
氷河にも わからなかったのだろう。
氷河は 不機嫌な顔と声は そのままに、アテナの言葉だけを 星矢たちに伝えてきた。

「マーマの眠る船をもっと深いところに沈めるか、逆に引き上げて墓を作るか。その どちらかを実行しろと、沙織さんは言った。その どちらかを実行できたら、それで目標は達せられたと認めてやると」
「沙織さんが そんなことを言ったの? 本当に?」
瞬が 信じられないような顔をして、氷河に確認を入れてくる。
一瞬、物言いたげな目を瞬に向け、だが、氷河は 何も言わずに 瞬に頷いた。
瞬が、それでもなお、沙織が 彼女の聖闘士に そんな冷酷を求めることが信じられないというかのように、切なげに眉根を寄せる。

それが生きている人間に対するものであっても、亡くなった人に対するものであっても、人が人を思い、人が人を愛する気持ちを否定するような女神ではなかったのだ。瞬の知っている女神アテナは。
自分が ブラコンを治すことを求められたわけでもないのに、瞬は 氷河の前で呆然とした。
星矢が、今度は完全にフォローのために、呆然自失状態の瞬に声をかける。
「でも、マーマを思い切ったってことを証明するには、他に方法はないだろ」
「それは そうかもしれないけど、僕が信じられないのは、そういうことじゃなくて――」
瞬が信じられずにいたのは、そういうことではなかった。
沙織が氷河に、マザコン(瞬は決して 氷河のそれを“マザコン”だとは思っていなかったが)を卒業しろと言ったこと自体を、瞬は信じられずにいたのだ。

そんな瞬を見て、氷河が複雑そうな顔になる。
物言いたげな氷河の視線。
紫龍が ふいに、
「瞬、氷河は 怒りのせいで 喉が渇いているようだ。お茶をいれてきてくれないか」
と 瞬に頼んだのは、瞬に向けられる氷河の視線が懸命に何事かを訴えるものであることに、彼が気付いたからだったろう。
紫龍の意図を酌み、星矢もまた、瞬に飲み物を要求する。
「あ、俺も、沙織さんとの面談で緊張して 喉が滅茶苦茶 渇いてるんだ。俺は、お茶じゃなく、あれが飲みたい。前におまえが作ってくれた、ニンジンとリンゴの免疫力アップジュース」
「ん……うん」
「紫龍はホットの烏龍茶だろ。氷河はコーヒーで、おまえはオレンジとキウイとリンゴの紅茶な」

そこまで面倒な注文をつけられると、かえって嫌と言えない瞬を、星矢は知っていた。
瞬としては、今 このタイミングで席を外すことは不本意だったのだろうが、人からの頼まれごとに どうしても嫌と言うことのできない瞬は、結局 掛けていた椅子から立ち上がり、仲間たちのいるラウンジを出ていったのである。






【next】