「で?」
4種類の飲み物を用意するには 結構な時間がかかるだろうが、瞬が戻ってくる前に 話を終えなければならない。
瞬がラウンジのドアを閉じると、紫龍は早速 氷河に、彼の“物言いたげな視線”が言いたがっていることの説明を求めた。
「沙織さんが 本気で そんなことを言うとは思えん。本当は 違うことを言われたんだろう」
星矢が、紫龍の横で大きく頷き、身を乗り出してくる。
「凍気より 奇天烈ダンスの方が 敵へのダメージがでかいって、平気で言ってのける沙織さんだぜ? マザコン卒業するより、マザコンでいた方が面白いって思うのが、沙織さんだよな」

人は誰もが、それぞれに独立した心を持ち、それぞれに異なる価値観と考えを持っている。
ゆえに人と人は完全に理解し合うことはできない。
だが、付き合いが長く深くなれば、その理解は 相当に深く正確なものになる。
アテナとアテナの聖闘士たちの関係は、まさに それだった。
氷河は事情説明を ためらう素振りを見せたが、すぐに 仲間たちに隠しておいても無駄と悟ったのだろう。
いかにも しぶしぶといった(てい)で、彼は その重い口を開いた。

「マーマの眠る船をもっと深いところに沈めるか、逆に引き上げて墓を作るか。その どちらかを実行しろと、沙織さんが言ったのは事実だ。ただ、そう言ったあと、俺に そのどちらかを実行するのが無理そうだったら、そうする代わりに 恋人を作って連れてこいと、沙織さんは言ったんだ。それが、俺のマザコン卒業を証明する第三の方法だと」
「恋人ーっ !? 恋人って、おまえ、どーすんだよ! おまえは――」

それがマザコン卒業を証明する方法として妥当なものなのかどうかということは、この際 問題ではない。
世の中には、恋人のいるマザコン男は腐るほどいるだろうが、沙織が それでいいと言っているのだから、その件について検討することは無意味だろう。
星矢がラウンジ内に木霊を作るほどの大声を響き渡らせたのは、沙織の提示した第三の方法を無効と思うからでも 理不尽と思うからでもなかった。
とりあえず ラウンジ内に木霊を作るほどの大声を響き渡らせてから、星矢が その言葉と声を途切らせる。
そうしてから 彼は、紫龍が 瞬に席を外させたのは、瞬のいるところでは言いにくいだろうことを氷河に言わせるためだったのだということを、初めて得心したのである。
肩から力を抜き――むしろ、勝手に身体が脱力した――星矢は声の音量を落として、
「おまえは 瞬に惚れてるんだろ」
と、氷河に尋ねた。

氷河は、『公言したこともないのに なぜ知っているのだ』という顔を、その質問への答えとして、星矢に手渡すことになったのである。
紫龍が、
「しのぶれど 色に出でにけり わが恋は ものや思ふと人の問うまで――ということだ」
と、平兼盛の歌を詠み、
「普段のおまえの言動を見ていて、それに気付かずにいられるのは 瞬くらいのものだ」
という、全く嬉しくない解説を付してくる。
それは、氷河にとっては本当に嬉しくない解説――全く喜べない事実の報告だった。

沙織は おそらく、白鳥座の聖闘士がマザコン卒業の証として連れてくる恋人が男子であっても、それを無効とすることはないだろう。
彼女は、人種、民族、身分、信教、性、言語、文化、能力等によって 人を差別することはしない人間である。
そこは問題ではない。
この場合 問題なのは、星矢でさえ気付く白鳥座の聖闘士の恋に、瞬だけは気付かずにいるということ。
そして、白鳥座の聖闘士が そういった分野での能力に全く恵まれていないということだった。

母より美しく思える女性に出会ったことがない。
聖闘士になる前は 聖闘士になるための修行のせいで、聖闘士になってからは 地上の平和を守るための戦いのせいで、常に多忙。
なまじ、何もしなくても女が寄ってくる容姿に恵まれているせいで、恋人がいないことに劣等感や 焦りを感じる必要もなかった。
おまけに、いつも側に瞬がいた――普通の美少女程度では太刀打ちできないほど 可憐な容姿を持ち、優しい心を持ち、こまやかな気遣いのできる瞬がいた――のである。
恋の能力に恵まれていなくても、氷河の生活には、これまで どんな不都合もなかったのだ。
それは、氷河には必要のないものだったから。
必要のないものを、人は努力して身に付けようとしないものである。

昨今は さすがに、ただ瞬の側にいられればいいという状況ではなくなってきていたので――“恋人”という立場を手に入れなければできないことをしたくなる機会が増えていたので――そろそろ 何らかの策を講じなければなるまいと考え始めていたところに、突如 この問題が降りかかってきてしまったのだ。
タイムリーといえばタイムリー。
しかし 氷河は、だから どうすればいいのかということが、皆目わからなかったのである。

「俺は、つい最近まで、瞬が俺以外の誰かのものになりさえしなければいいと思っていたんだ。俺たちは仲間同士だし、瞬に特別な相手ができさえしなければ、一生 共にいることも可能だろう。そう思っていた」
「つい最近までは? 最近は そうじゃなくなってきてたのかよ?」
それは いらぬ突っ込みなのか、重要な突っ込みなのか。
とにかく、星矢が 白鳥座の聖闘士に突っ込みを入れてくる。
まさか『瞬に突っ込みたい衝動にかられることが多くなった』と答えて、“正直”に“馬鹿”をつけるわけにもいかないので、氷河は それには答えなかった。
代わりに、自分の恋の能力の欠如を、仲間たちに訴える。

「俺は、瞬より強いわけでもないし、瞬より優しいわけでもない。瞬のように崇高な理想や志があって戦っているわけでもない。不器用で、愛想もない。『君の瞳に乾杯』だの『おまえは薔薇より美しい』なんて、気の利いたセリフを言えるわけでもない」
だから、自分はそういうことには向いていない。
どうすれば瞬を“恋人”にできるのかも わからない。
――ということを、氷河は仲間たちに訴えたのだが、星矢は 氷河の意図とは微妙にずれたところに引っ掛かりを覚えたようだった。
星矢が嫌そうに顔をしかめ、半ば哀れむような目を氷河にむけてくる。

「その台詞の どこが気が利いてるっていうんだよ。恥ずかしい奴だな。センスが50年分古いぜ」
「星矢に そう思われるということは、実際には1世紀分 古いということだろうな」
紫龍に そう言われるということは、現実には白鳥座のセンスは2世紀分は古いに違いない。
自分の実力を正確に把握することは 人間の成長には必要不可欠なことだろうが、自分の実力を正確に把握することで、氷河は絶望的な気分になってしまったのだった。






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